〜愛のベトナム支援隊〜 Love and Support Vietnam

枯れ葉剤被害者を支援しよう!寄付金受付中!今年の衣類は目標達成!ご協力ありがとうございました!

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2月6日(金)東北学院大学バックザン省2軒目の家庭訪問

昨日のアクセスは99でした。
何時もありがとうごさいます。
 
本日は、東北学院大学経済学部のフィールド・ワークによる家庭訪問の二軒目です。
バックザン省二軒目の家庭訪問は、12月20日の午後行われました。


バックザン省バックザン市チャン・グェン・ハン町にお住いのディン・イ・ニョーさん宅をご紹介(要約)します。


ニョーさんが挨拶されました。
「皆さんは、本日、日本からきてくださり、大変に感謝しています」

 
ご家庭の構成をご紹介します。
世帯主(夫):ディン・イ・ニョーさん 1931年生まれ。
妻:チャン・ティ・ベーさん 1946年生まれ。再婚。
長女:ディン・ティ・ヅオンさん 1976年生まれ。38歳。
 
※ 事前にVAVA中央本部からもらった資料とは、御主人の名前も生年も違っていたので、現場でご本人から聞いた話を優先しました。
 
ニョーさんの家は、ベトナム国鉄の線路から30メートルほどしか離れていない所にあり、バックザン省VAVAの支援で建築された家です。。
 
お嬢さん一人の3人暮らしですが、妻のべーさんは、再婚で、前の夫の間にできたお嬢さんがいたのですが、自宅近くの線路脇で物売りをしていて、足を滑らせ、列車にはねられたそうです。事故は、「タン・サオ」と言っているので、事故死は1986年頃のことでしょう。そのお嬢さんは、当時17歳だったといいます。今、生きていれば、43歳です(2014年)。
 
今年83歳のニョーさんは、抗仏戦争と坑米戦争にも従軍した方です。1949年に入隊。除隊は1973年。軍歴は長いです。
 
ニョーさんは、南部タイグエン地方のザーライ省(註:コントゥム省の南の省)の少数民族(バナ族)の出身。バナ族は中部高原地帯に住んでいる少数民族の中で多い人口を抱えており、同地ならではの独特な文化の一翼を担っています。ニョーさんは、抗仏戦争の時もタイグエン地方で戦っていました。1961年までタイグエンにいて、1962年から北部(ホアビン省)に行ったそうです。

しかし、戦争の長期化と激化が予想されたのに、なぜホアビン省に行ったのか? ホアビンで何をしていたのか謎です。このことでの肝心のポイントは、枯れ葉剤の接点ですが、「タイグエンだと思う」とニョーさんは言います。確かにベトナム初の枯れ葉剤の撒布は、コントゥム省で1961年8月10日から始まったのですが、枯れ葉剤の接点の一番の可能性がどこにあったかについては、調査の必要を感じます

 
「泉の水をよく飲みました。その時の泉の水はとても汚かったので、その後は、小さい井戸を作って飲みました。」と言う話だけでは、不十分です。
 
 
長女:ディン・ティ・ヅオンさんについて
 
先天的に精神障害と身体障害をもっている。歩けない。また、体を支えられなくて、粗末な車いす(小型寝台車のようなもの)に常時座っている、と言うより寝た状態です。
 
ハノイの病院を含めて、何回もいろいろな病院に連れて行ったが、治らなかった。
病院の診断:「脳に問題がある」。
「当時38年前に、ハノイまで娘を連れて行くことは大変でした。」(ニョーさん)。
「小さい時から、あちこちの病院に連れて行きましたが、直すことはできないと、何回も言われました」(ベーさん)。
 
今ヅオンさんが自分で出来ることは何もない。すべて親のサポートが必要である。ご両親の話は、ヅオンさんは理解できるわけですね?
「ある時には理解できて、たくさん話をする。ある時は何も分かりません」と、母親。
 
「『この家を売ってくれれば、たくさんのお金で有名な医者にみてもらえる。病気が治れば、自分で生活できる。でも、両親が死んだら、私は死ぬしかない』と娘が言ったことがあるんです」と母親のベーさんは教えてくれましたが、ショックを受けたようでした。
 
ヅオンさんが中庭に出る時には、特製の車いすに乗せて引っ張り、父親が寝台車まで運ぶ。母親は、腕の力もよわり、体の調子が悪くて娘を運ぶことはできません。「昔は政府から車いすが支給されましたが、高すぎて、使えませんでした。それで、自分で買って、少し調整しました」
個々の患者の状態に合った機具などは、政府から支給されないのです。あてがいぶちです。
 
「今の娘の状態は、何もできませんので、全部親がやらなくてはなりません。」(ニョーさん)
 
今のお二人の心配の種は何ですか?
「もし私たち二人が死んだら、娘がどうなるか。ということです」
 
ベーさんに、戦争の経験はないかどうか聞いてみました。
「1966年から駅員になりました。駅員の時は、武器や物資を運びました。最初は、バックザン省のKepという駅(省都バックザン市の北のランザン郡にある駅)で1年間勤務、その後ランソン省のドンダン駅(北村註:これは、1979年2月17日〜3月16日までの中越戦争に備えて派遣されたと推測します。これを第三次インドシナ戦争と呼びます)で、列車で運んできた武器・弾薬をトラックに移し替える仕事でした。(北村註:Beさんの記憶が薄くなっているようで、隣のVAVAの男性は、ドンダン駅ではなくて、ランソン駅だと主張しています。しかし、いずれにしろ、中越戦争が始まって、1979年にバクザンに戻ってきたそうです)1986年に駅員から引退しました。」
 
御主人のニョーさんは、現在は無職です。ニョーさんは、戦争で負傷しているので、傷病手当として毎月230万ドン、妻のベーさんは、毎月300万ドン受けているそうです。
 
この後、フオンさんの足浴に移りました。
           
高野さんと本郷さんたちが浴剤を使って交流を深めてくれました。
          
学生さんが歌を歌うと、ヅオンさんは喜びました。
         

          
     高野さんが弾いてくれたロールピアノは有効でした。
          
イケメンの一色君には好感をもっていたようです。記念写真を撮る時に、一色君を側に呼んでいました。
 
その後、支援の寄付と衣類を贈呈し、記念撮影をして失礼しました。
       

        歌里君からニョーさん(青い帽子の人)に衣類の支援を。
        
        野崎教授から奥さんのベーさんに寄付が贈られました。

        
   イケメン一色君がヅオンさんの隣りに呼ばれました。

ここで学んだことは何でしょうか。
「両親の死後、娘はどうなるか・・」といういずこにも共通する子に対する親の心配です。
ベトナム社会に介護制度を持ち込むのはさほど難しくないですが、近隣の社会でも面倒をみていく地域の共助精神をどう育んでいくか・・。
そして、そういう家庭の悩みを吐露する場所や機会が、極めて少ないことを感じました。
さらに、
変形の車いす(写真)・・これは体が楽に収まる形ではありません・・個々のニーズに合うものを与えていく姿勢が必要でしょう。全員に合うものは、つまり個々には合わない・・・ということではないでしょうか。


                          愛のベトナム支援隊・北村 元
                            Love & Suport Vietnam
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