〜愛のベトナム支援隊〜 Love and Support Vietnam

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# 歴史の源流・ゲアン省・下

昨日の続き、歴史の源流・ゲアン省・下です。
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不幸にして、
タイソン(西山)三兄弟のうちの三男で、タイソン蜂起のヒーロー、グエン・フエは、自分の夢をかなえることが出来なくて、早世してしまう。しかし、ヴィン市の隣りにあるクエット山のフン・ホアン・チュン・ド要塞の遺跡の中に、グエン・フエの夢を追跡することができる。山にあがれば、発展したヴィン市をながめ、ベトナムの歴史の中の輝かしい時代、国の統一への苦闘、主権の保護、外国勢力の数々の侵略(主として中国を指す)に思いをはせることができる。

 

ゲアンの歴史は、近代革命の偉大な祖としてのホーチミン首席の登場近代にいたって頂点に達したとベトナム人は言う。貧しいセン(蓮)村にある茅葺の家に生まれた。国家解放のついての革命理論を学ぶために、世界を回った。帰国すると同時に、国家独立と奴隷状態からの自由にむけて国民を指導した。この偉大なる指導者とベナム人が仰ぐホーチミンに、尊敬と感謝の念を表すために、数えきれないほどの詩が作られた。

 

当時のセン村と呼ばれた村は、現在キムリエン(金の蓮)村という名前になり、ゲアン省観光の人気の訪問地になっている。セン村は、ホーチミンの父親の出身の村であった。その近くのホアンチュ村は、母親の生家のある村だ。両方の村とも、省都ヴィン市から12期泥ほどだ。私は、まだホアンチュ村に行ったことはない。ホーチミン首席の逝去以来、故郷の村とハノイのホーチミン廟は、ものすごい人の数が訪問している。

 

自然がいっぱい

 

ゲアン省のクアロー海岸とティエン・カム海岸は、旅行者の人気だ。まだ観光客が来なかった時代、地元のベトナム人だけだった時代に、海岸で食べた焼きハマグリのうまさは忘れることができない。海の幸が多いゲアン省の海岸は、隠れた食の宝庫だ。ちょっとゲアン省に長居する人々は、ぷー・マット国立公園の清純な森に足を向ける。省都のヴィンは空爆を受けたが、美しいザン川とゲアン省西部の山々は、まだまだ手つかずである。ベトナム戦争時代のチュオンソン山脈につながる山岳トレイルも人気だ。アドベンチャーツアーには格好だ。タイ族、ムオン族の要る村々には伝統が生き、ひとなつこい子どもが遊び、)高床式の家に水車が回る風景も見られる。

 

ハノイからだと、思い切らないとなかなか行けない距離である。(おわり)

             愛のベトナム支援隊・北村 元          
          Love & Support Vietnam
 
          <本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>
 
       ◎2011-2013 Love & Support Vietnam All rights reserve.

| comments(0) | - | 08:49 | category: ベトナム:歴史 |
# 歴史の源流:ゲアン省・上
 

歴史の源流:ゲアン省・上

 南北に長く伸びるベトナム。その南北両端から一番距離があるのがゲアン省。言ってみれば、地理的にもベトナムの中心であり、またベトナム人の心の中心にもなってきた。べトナム中部の北端に位置するゲアンは、多くの多才な士の誕生の地だ。

 

 現代の筆頭がホーチミン首席だろう。ホーチミン首席は、ゲアン省のナムダン・コンミューンの生まれだ。


 天と地の聖なるエネルギー(気)が合流すると言われるラム川が流れているところです。フン王の時代になる前に、ここはViet Thuongという古代王国の地で、境界線が現在のゲアン省とハティン省に広がっていた。

 
フン王(歴代の)が王国を建てた時に、Viet Thuongがヴァン・ラン王国の新しい一つの県になった。谷あり山ありの数千年の歴史の中で、厳しくも輝かしい数々の出来事により、ゲアン省は歴史に登場し続けた。

 

 ゲアンは一度も首都になったことはないが、ビジョンをもった指導者を生んできた。ゲアンは、その昔、チャウ・ホアンとかキュー・ドゥックという名で呼ばれ、軍隊結成の揺籃地、国家奪還と統一に備えて必要な体力を蓄える地として選ばれた。

 
国家の英雄、マイ・ハクデーがいる。中部ゲアン省のナムダンにバンアン城を築城し居住しただけでなく、722年に、マイハクデー(マイトクロアン・中部ハティン省の出身者)は唐朝の統治に抵抗する蜂起を起こし、唐朝の軍10万人は侵攻し、マイハクデーは戦いに破れ、軍隊を林に撤退させ、その後、病気で亡くなり、蜂起は失敗した。彼の墓は、ラム川のほとりに残っている。地元の人々は、マイ・ハクデーを、ヴア・マイ(マイ王さま)と親しみを込めて呼んでいる。

 

 この地に対する光中帝グエン・フエの夢を表しているというフン・ホアン・チュン・ド要塞の遺跡もある。この遺跡は省都ヴィン市の近くにあり、ゲアン省の誇りとなっている。軍事と政治に」すぐれた光中帝は、ベトナムを最糖質した後この地に注目し,首都の移転を計画した。

 

 クアンチュン(光中)は本名をグエン・ヴァン・フエ(阮文恵)またはグエン・フエ(阮恵)と言い、タイソン(西山)三兄弟のうちの三男で、1788年に自ら皇帝を名乗り、クアンチュン(光中)帝という名で呼ばれてる。ベトナムのナポレオンとたとえられるほどの戦上手で、シャム(現タイ)、清(現中国)と次々にベトナムに攻め入る外敵を徹底的に叩きのめした。

 語り伝えられているところでは、声は割れ鐘のように大きく、眼光鋭く英知に長け、腕力にもすぐれていて
100キロの米俵を担ぐことができるほどだった、という。戦略にすぐれ、軍律は厳しく、常に第一線に立って戦い、全軍の兵士たちは感激した。ベトナムの歴史上、最も偉大な将軍の一人と言われている。


註1:ベトナム最初の王、フン王の命日(Ngày Gi Hùng Vương) 旧暦310日に当たる。ベトナムの伝説では、龍と仙人から生まれた50人の男と50人の女のうち長男がフン王で、ベトナム最初の国、ヴァンラン(Văn Lang 文郎)国を建てたとされている。フート省(Phú Th)にあるフン王を祀るフン神社(Đn Hùng)では、盛大な祭りが行われる。ハノイ歴史研究会 HPより)

 

註2 水環境:ゲ・アン省は(河口が違う)七つの川があり、河川の合計の長さは9,828キロメートル、一番長い川はカー川(ソン・ラム川)ラオス のシエン・コアン省ムオン・ペク県を源流にし、川の長さは532キロメートル(ゲ・アン省内は361キロ)、流域の面積は27,200平方キロメートル(ゲ・アン省内 15,346平方キロメートル)である。年間水量は28,109立方メートルである。

 

ゲ・アン省は、故ホーチミン主席の故郷である。ゲ・アン省の人々は、勤勉で向学心が強く、勉強好き、創造力が豊かということで知られている。また、ゲ・アン省には大学が5校、短期大学が8校あり、ベトナム中部北の教育の中心地となっている。(つづく)

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| comments(0) | - | 09:53 | category: ベトナム:歴史 |
# ハノイの二分割を計画していたフランス
ツアーに関する長期のご報告が終わったところで、一人の方から激励をいただきました。
感謝と御礼を申し上げます。

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夏の支援隊活動のご報告、お疲れ様でした。
あのようにまとめて掲載されることは本当に大変なことなのに、長期に渡って
ご丁寧に報告をしてくださり、ありがとうございました。本当に頭が下がります。

支援隊のブログを読み、「私の母」の作文を読んでいると、
まだまだ頑張らなくては、と力になります。

お忙しいとは思いますが、お体ご自愛下さい。

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今日は、昨日で昨年のわが支援隊の夏の活動報告をおえましたので、ちょっと気分を変えて、ハノイの現代史の一駒に触れます。

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かつてベトナムを植民地としていたフランス共和国。

1902年の地図には、ハノイを人種的に二分する都市計画を立てていたことがわかります。

ハノイをニ地域に分けてベトナム支配を強固なものにしようとしていたマスタープランが地図に示されているのです。一つは、ヨーロッパ人居住区。もう一つは時ともベトナム人の居住区である。フランス人のやりそうなことですね。

2010年8月に、ハノイ市内で、それらを示す68の地図と9件の文献が展示されました。展示資料には、1873年から1954年までのフランスの管理地域であるハノイのことが示されています。

地図のうち、5枚の地図は布に描かれ、現在は、ハノイ市に編入されているフースエン、タイン・オアイ、ダン・フオン、チュオン・ミー、ミー・ドゥック地区が特集されていました。

フランスは、1873年から1895年までの間に、市の境を確定し、ベトナムの由緒ある主な建物を取り壊して、碁盤の目風の街路を作り、ヨーロッパ調の街づくりを計画していたようです。

取り壊しの対象になった建物には、現在のカソリック教会と今日建っている中央パゴダと旧王宮が含まれています。ベトナム人が言うには、「それらを取り壊して、得体のしれないフランス植民地風の建物を建設しようという意図」だったようです。

現在のハノイでも十分にフランス風ですが、人種別に別け隔てをするという・・・何を考えていたのでしょうか? 産業も興さず、刑務所と保養地しか作らなかったフランス。もっとも、第二次世界大戦では、日本もベトナムに飢餓状態を作ったりしましたね。 植民地解放軍ではなかっったのですね。ベトナムの人々に苦しみを与えていたのです。反省! 

        愛のベトナム支援隊・北村 元
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