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# サッカールーズの不思議な”勝利“(下)

今日の名言・格言・箴言

 

小さい夢は見るな。

それには人の心を動かす力がないからだ。

 

 (ゲーテ)

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サッカールーズの不思議な”勝利“ 今日は最終回です。

 

サッカールーズの不思議な”勝利“(下)

 

ウォレンは、オーストラリアのベトナム戦争関与に、国内で反対の声が強くなって行く中、遠征目的はプロパガンダであると、長い間主張していた。

 

ギャリ―・ウィルキンズは、1967年にサイゴンの練習前に、ブーツを履いた。

 

「オーストラリアがサッカーチームとしてのそのような強力な宣伝力と親善武器を所有していたなんて、彼は一度も気づいていなかった」と、ヘイは言った。

 

芸能人が、ベトナムでの公演に対してベトナム兵站・支援メダルを受けるだけでなく。一般民衆からの認知も受ける一方で、オーストラリアのフットボールチームは利益になる物は何もなかった。2005年に、政府は、政府あるいは軍の管轄下にあった個人だけが、慰問で公的な貢献認知を受ける資格があると言った。オーストラリアのサッカーチームは、トラックスーツしかもらっていない。

 

コリーは、軍慰問をした有名人や音楽家について、「私が思うに、おそらく、私達は、そう言った芸能人などより誰よりもより危険な場所にいたと思う」と言った。

 

「エンタテイナーが、だいたい保護された軍隊ベースに外出している間、私達はそれにすぐいた。誰かが、私達がメダルを得るべきであると言ったけれども、私は知らない。それは危険であったかもしれないけれども、私達はそれを冒険のより多くと考えた。」

 

ヘイは、サッカールーズが北朝鮮と試合をした1965年に、駐カンボジア・オーストラリア大使のノエル・セント・クレア・デシャンプ氏が言った話を引き合いに出した。「オーストラリアチームがここに来たことは、少なく見積もっても1億ポンド以上の価値がある」と。同大使は、サッカールーズは毎年東南アジアを回るべきだ」と勧めた。

 

オーストラリア初の国際大会でのサッカー優勝ロフィーが、南ベトナムのグエン・ヴァン・チエウ大統領からサッカールーズに渡された。

 

このトーナメント後の数ヶ月で、情勢が大きく変わった。オーストラリアの総理大臣ハロルド・ホルト首相が逝去した。テト攻勢が進行し、反戦行動が盛り上がってきた。

 

しかしながら、サッカー選手にとって、ベトナム建国記念日カップは、生き続けた。

 

ウォレンは、自分が死ぬ年まで毎年、チームメイトだったアティラ・アボニーからクリスマスカードを受け取った。「ベトナムのトンネルを忘れるな」と書かれていた。

 

この言葉は、1967年の決勝戦で、大観衆の前でオーストラリアチームが競技場に入る時のことを示している。

 

ウォレンはあの時のことを思い出した。「私は、未だに、首の後ろの身の毛がよだったのを覚えている」と。(おわり)

 

出典:シドニー・モーニング・ヘラルド(2017年11月12日付け記事)

 

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| comments(0) | - | 18:16 | category: ベトナム戦争 |
# サッカールーズの不思議な”勝利“(中)                

今日の名言・格言・箴言

 

嫉妬に御用心なさいまし。

嫉妬は緑色の目をした怪物で、

人の心を餌食にしてもてあそびます。

 (シェイクスピア)

 

――――――――――――――――――――――

 

サッカールーズの不思議な”勝利“((中) 今日は、二回目です。

 

試合中に、ベトコン兵士の爆弾持ち込みに備えて、観客は、スタンドに近づく子供たちに用心した。2年前に、スタジアムが攻撃され、4人の子供を含むベトナム人11人が死亡し、42 人が負傷した。

 

ゴールキーパーだったコリー〈現在76歳〉は、空港でオーストラリア人の友人と会い、友人がサイゴンのオーストラリア軍施設へ行けるよう手配してくれたことを思い起こした。

 

コリーは言った。

 

「私の友人は徴兵されて、サイゴンに送られたんだ。

 

彼は、私達が慌ただしい軍隊の中に入り、ビール付きのきちんとした食事をし、映画見られるように手配してくれた。オーストラリア兵たちは、一回銃撃音なら、心配しなくてもいいと。もし2つの銃撃音を聞いたなら、少し心配しろと。もし3発の銃撃音なら、床に伏せろ・・と言った。ベトコンは、バイクできて、爆弾を置いていくんだ」 と。

 

1968年から1988年までオーストラリア・オリンピック選手団の首席の医師だったチサッカー・チーム・ドクターのブライアン・コリガンから、サイゴンの水は飲まないようにとの警告を受け、代わりに、水分の補給にはビールを飲むようにとアドバイスされた。

 

「私達はそれほど確信があったわけではなかった」と冗談まじりにコリーは言った。

 

チームに同行していたカンタス航空の職員が、アメリカ軍施設へ入れるように道を開き、騒然とした食堂で、選手はアメリカ兵とオーストラリア兵と一緒の所で食事をした。そこには、しばしば不適当な違和感があった。サッカー選手は、サッカーをするために、一つの方向に向けて進み、兵士は戦争するために別の道を歩むのだ。

 

トーナメント中に、オーストラリア代表チームが、サイゴン南東のオーストラリア軍の兵站基地であるヴン・タウまで飛行した。オーストラリア軍兵士と会うことと、オーストラリア軍チームと対戦するためだった。チームはオーストラリア空軍のRAAF「トナカイ」号に乗って行った。当時のシドニー・モーニング・ヘラルドリポートの記事によると、選手達は、輸送機に空いている銃弾の穴は気にしないで欲しいと言われた。

 

「トナカイ号機後方には、ドア無しの口があり、私達は水上約10フィートの海面上を飛んだ」と、コリーは言った。

ウォレンは、時々サイゴン遠征旅行が、ハリウッド戦争映画のどこかに似た「シェイラ、ウォッグズそして男の同性愛者」という自叙伝を著した。

 

「おはよう、ベトナムは、私に、私達が放り込まれた場面を思い出させるね」と彼は言った。

 

五つ星の現在の華やかなオーストラリアのスポーツ選手とはほど遠く、部屋割りされた彼らは、ひと部屋に4人押し込まれ、バンク・ベッドを共有した。2人の選手は、ホテルの電気の基本配線からショックを受けた。

 

「私達はこのツアーで、大きな仲間意識を築きあげた」とコリーは語った。彼は、その後、ナショナルサッカーリーグ・クラブのウーロンゴン・ウールブズの監督を務め、そして、Aリーグが誕生してからは、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズでも、アシスタント・コーチを務めた。

 

「ウーロンゴン・ウールブズはたくさんのオーストラリアチームの誕生と共に姿を消した。誰もが現在では、傭兵より実力を持っている。もしオーストラリア代表選手としてプレーして敗れたなら、週1万ドルを得るために、彼らは飛行機に乗ってすぐ次の日、本国に戻らなければならない。

 

「私達のチームの選手は、今では見たことのない我が国への情熱をもってプレーした。今日、情熱をもってプレーしない選手がいる。彼らはちょうど別のゲームのプレーをしているに過ぎない」

 

ヘイによれば、たくさんの金をもらっているわけではなかった。ベトナムフットボール連盟は、ツアー中のオーストラリアチームの航空運賃と宿泊費用を支払っただけだった。オーストラリアサッカー連盟は、費用の一部を賄うために、政府に補助金として1万ドルを要請した。しかし、そのお金が支払われたかどうかは分かっていない。

 

ベトナム滞在中に、選手たち〈そのほとんどは家で仕事を持っていた〉には、週50ドルの賃金と週10ドルの手当が支給された。トーナメントに優勝した時の報酬として、チームのトラックスーツをもらうことができると、選手たちは告げられていた。(つづく)

 

出典:シドニー・モーニング・ヘラルド(2017年11月12日付け記事)

 

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| comments(0) | - | 08:41 | category: ベトナム戦争 |
# ソフィテル・メトロポール・レジェンド・ハノイ

 

31日のアクセス 129 PV 1日のアクセス96でした。

本当にありがとうございました。

 

ベトナムに初めて旅をしている知人から、メールが入りました。

 

ソフィテル・メトロポールというホテルが、ハノイにあります。今では、正式名は「ソフィテル レジェンド メトロポール ハノイ」です。そこでの経験が書かれていました。

 

ホテル内のツァーに参加して、ホテルの地下にあった防空壕を歩きました。

      

防空壕内の写真です。↑

 

  

  ベトナム戦争の歴史が簡略に書かれています。

 

ベトナム戦争時、ジョン・バエズ(上の絵写真:右上)がこのシェルター内でライブをした時の録音があって、シェルター内で聴かせてくれました。

 

爆音や人々の叫び声までが録音されていました。その中で、彼女がWhere are you,  my son?を歌っているのですが、力強い太陽の様な歌声で、思わず私は泣いてしまいました。

      

私自身が空爆の最中にシェルターに居るように錯覚し、そして、彼女の歌声に励まされました。

 

以上、知人の写真もおつけしました。

ここで、北村からもう少し、説明をつけましょう。

 

「ソフィテル レジェンド メトロポール ハノイ」のツアーには、宿泊客しか参加資格がありません。宿泊したら、ホテル内にある防空壕跡は必見です。

ガーデン・プールとバンブー・バーの間には、地下に降りてゆく階段がひっそりと存在していました。これが、ベトナム戦争時代の防空壕跡へと続く階段。空爆が行われた際に、宿泊客をかくまった防空壕入り口です。
   

1961年から1975年まで続いたベトナム戦争中は、ホテル内に各国の大使館が移設されていて、反戦運動で知られるアメリカの映画俳優ジェーン・フォンダも2ヶ月間ほど滞在。同じく反戦運動に熱心だった歌手ジョーン・バエズも、この防空壕で避難したことがあるそうです。
   
戦後、防空壕は閉鎖されていましたが、2011年にバンブー・バーを改築した際に、プールの片方が浅くなっていることを不思議に思ったスタッフたちにより発掘、再発見されました。

   
ヘルメットをかぶって降りてみると、分厚いコンクリートで固められた防空壕内は、華やかなホテルの雰囲気とはまったく異なり、シンと静まり返った別世界。くねくねと折れ曲がった内部は、思いのほか奥が深く、当時の恐怖が染み付いているような気も……。


ときには、ここに、40名以上がひしめき、1日に6度も、防空壕に逃げ込むこともあったと言われます。内部には、1972年のクリスマスにジョーン・バエズが、かつてこの防空壕内で“ Where Are You Now My Sonを歌ったときの録音も、流されています。


ハノイの戦争博物館など、ベトナム戦争の史実を知る場所も興味深いですが、実際に防空壕に入って、場の空気を感じることができるのは、とても貴重な体験。あらかじめの予約で、宿泊者だけに許された特権です。

ホテル・ロビーには、ジョーン・バエズが2013年にホテルを再訪した際に描いた、ベトナムの子供の絵画も飾られています。
    

「ソフィテル レジェンド メトロポール ハノイ」は、泊まることで、街の歴史を体感することが出来るホテル。単にラグジュアリーなだけではなく、知的好奇心を刺激するステイがお好みなら、ぜひここへ。
 

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| comments(0) | - | 17:58 | category: ベトナム戦争 |
# 澤田教一「故郷と戦場」展

澤田教一「故郷と戦場」展が始まりました!

       

澤田教一《安全への逃避》 ビンディン省ロク・トゥオン 1965年 Sawada Kyoichi /Getty Images

 

 

 「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」展が、昨日10月8日から青森県立美術館(青森市安田字近野185)で始まりました。12月11日(日)までです。


 1936年、青森市に生まれた澤田教一(さわだ きょういち)は、1961年、UPI通信東京支社に入社しました。ベトナム戦争が激化すると現地での取材を強く希望しましたが受け入れられず、休暇をとって自費で取材に向かいました。この写真が好評を得たため、はれてUPIの特派員としてベトナムで取材することになったのです。

           

34歳で銃弾に倒れるまで報道カメラマンとして活躍。ベトナム戦争が拡大の一途にあった時期に激戦地で撮影を続け、66年にはピュリツァー賞を、没後の71年にはロバート・キャパ賞を受賞。代表作《安全への逃避》では、戦闘で故郷を追われながら必死に生き抜くベトナムの人々の姿を捉え、戦争の過酷な現実を世界中に突きつけました。


べトナムの新聞・タインニエン紙からの引用です。

 

世界的に有名な写真を澤田が撮ったロック・トュオン村に在住するグエン・ヴァン・タインさん(84歳)の話です。

        

「その日の朝、銃の音が聞こえました。敵が向かってくるということを分かったので、私と妻のレ・ティ・ダオは娘のグエン・ティ・フエを抱っこして、トンネルに隠れました。アメリカ兵の一団がそのトンネルを見つけて、こっちに出て来いと、私たちに合図しました。

 

通訳者を通して、アメリカ兵は『どうやったら向こう側に行けるか』と聞いたのです。向こう側はオン・チャムの丘です。『泳ぐ』と私は答えました。そして、私たちを先に泳がせてから、アメリカ兵たちは後ろから泳いできました。そのとき、チョン川を泳いだ人は何人がいましたが、澤田さんの写真には5人だけが写っていました。

 

そのあと、オン・チャムの丘にある庭に私たちは集められました。殺されるのではないか、と皆が怖がっていました。澤田さんは私たちのところに親切に歩み寄って、泣いている子供をあやしてくれました。彼の顔を見たときに、慈悲深いいい人だと分かりました」 (翻訳:グエン・ティ・トゥイ・リン)

 

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| comments(0) | - | 09:24 | category: ベトナム戦争 |
# ベトナム戦争終結40年 報道ぶり4
今回は、産経新聞の記事をご紹介します。

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【サイゴン陥落40年(上)】
世界を変えた「テト攻勢」 

ニクソン訪中でベトナム戦争は終局 

「昨日の敵」は「今日の友」に 

友田錫 元本紙サイゴン特派員

        http://www.sankei.com/images/news/150429/prm1504290029-n1.jpg
1975年4月29日、脱出する人々を乗せてサイゴンの米国大使館から飛び立つヘリコプター (AP)

 1975年4月30日、旧南ベトナムの首都、サイゴン(現ホーチミン)の大統領官邸に白旗が掲げられた。この瞬間、ほぼ15年にわたって世界の耳目を集めたベトナム戦争が終わりを告げた。それから40年。あらためてこの戦争の流れを振り返ってみる。

 歳月を隔てて国際情勢の流れを振り返ってみると、必ず何がしかの、しかも思いもかけぬ発見がある。この15年戦争にあっては、68年1月の解放戦線による「テト攻勢」が、実は最大の分岐点だった。

 米国民に衝撃

 テト攻勢。それは、米軍の本格介入で劣勢に追い込まれた解放戦線側が、巻き返しを図って展開した乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦だった。解放戦線はテト(旧正月)の休戦の隙をついて、首都サイゴンをはじめ「南」全土の主要都市と基地に一斉攻撃を仕掛けた。あまつさえ、サイゴンの米大使館も一時、占領されかけた。

 この光景がテレビで全米に放映されると、「勝利は近い」と信じこまされていた米国民は衝撃を受けた。これをきっかけに、全国にベトナム反戦の炎が燃え広がった。翌69年1月に登場したニクソン政権は、ついにベトナム戦争からの離脱に踏み切った。

 だが世界の超大国、米国が、「大国の名誉」を保ちながらベトナムから足を抜くにはどうしたらよいのか。

 当時、中国と旧ソ連の対立が戦争一歩手前のところまで険悪になっていた。大統領のニクソンとその右腕で安全保障担当の特別補佐官だったキッシンジャーは、これを好機と捉えた。

中国はベトナム戦争では物心ともに北ベトナムの最大の支援者だった。米国がその中国と手を握れば、ハノイの立場は決定的に弱まる。同時に、東西冷戦で米国の最大のライバルであるソ連も大きな打撃を受けるはずだ。一石二鳥の妙手だった。

 中国もソ連の脅威への対抗策を探していた。こうした米中両国の思惑が合致して、72年2月、ニクソンの訪中が実現した。このニクソン訪中を境にベトナム戦争は一挙に終局へと突き進む。翌年1月、難航していたパリ和平交渉が妥結して協定が成立。3月、一時54万人を超えていた米軍の全面撤退が完了した。

 一言つけ加えておこう。この時点では、北ベトナムの指導部には武力による「南」の統合を急ぐつもりはなかった。ところが、ワシントンで繰り広げられた政治ドラマ、ウォーターゲート事件が、ハノイに対「南」戦略を転換させることになった。

 ニクソンの大統領辞任騒動を見て、米国にベトナム再介入の余地なしと見極めたハノイは、「南」の武力統合の方針を決定したのだ。74年末、南全土の征服作戦の火ぶたが切られ、半年足らず後、サイゴンは陥落した。

 三極構造の出現

 ベトナム戦争の流れという点では、確かにテト攻勢は決定的な転機となった。だが、その産み落とした米中接近は、単にベトナム戦争終結に道を開いただけでなく、国際政治全体の骨組みを一変させることになった。すなわち、第二次世界大戦後から続いていた「米ソ」の二極構造に代わって、新たに「米中ソ」の三極構造が出現したのだ。

 さて、目を「ベトナム戦争後」に転じる。ベトナムを取り巻く情勢も、国際政治の枠組みも、再び様変わりした。米国とベトナムの関係は、「昨日の敵」から「今日の友」に転じた。対照的に、中国とベトナムは南シナ海の領有権をめぐって激しく対立している。

ベトナム戦争がその誕生の一端を担った国際政治の三極構造も、80年代末からの冷戦と中ソ対立の解消、ソ連邦の解体によって消滅した。代わって、抜きんでた指導的な国のない「Gゼロ」の世界が生まれつつある。その中では、台頭著しい中国と、既存のパワー、米国とが、アジア全域で覇を競っている。

 ベトナム戦争は重要なことを教えてくれた。それは、このような国際的広がりを持つ戦争にあっては、ある一つの現象が、戦争そのものの行方にも、また世界の政治の骨組みにも、甚大な影響を及ぼし得るということだ。そのことを心に留めながら、私たちはこの新しい国際情勢の展開を見ていく必要がある。(敬称略)
 ◇
 ともだ・せき 早大卒。東京新聞を経て産経新聞でサイゴン特派員、パリ支局長、外信部長。その後亜細亜大学教授、日本国際問題研究所所長を歴任。


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# ベトナム戦争終結40年 報道ぶり2
二回目の今日は、沖縄の琉球新報が報じるニュースです。

++++

「ベトナム村」:内部写真発見 60年代、

 米軍北部訓練場


2015年04月14

 米軍が1960年代、ベトナム戦争のゲリラ戦訓練などのために沖縄本島の米軍北部訓練場に設置した通称「ベトナム村」内部の写真が、13日までに見つかった。先端を鋭利にとがらせた無数の丸太を地面に突き立てた様子などが確認できる。
         
 外部からの攻撃に備えるベトナム現地の集落を模したものとみられる。ベトナム村では近くの東村高江の住民が戦闘訓練に動員させられており、米軍が山林に仕掛けたわなでけがをした住民の報告もある。70年前の沖縄戦以後も、戦争と密接に関連した米軍基地と隣り合わせで生活せざるを得ない沖縄の実態を物語る貴重な資料だ。

 写真は元共同通信記者の横堀洋一さん(81)が米軍の許可を得て訓練場内を取材した際に撮影し保管していた。撮影日は不明だが、当時の記録や横堀さんの知人らによると、64年ごろの撮影とみられる。

 60年代の報道や資料によると、米第3海兵師団は61年12月、ベトナムなど東南アジアのジャングルにおける戦闘を想定して「対ゲリラ訓練学校」を訓練場内に設置した。起伏の激しい山林での生存訓練や、「ベトコン」と呼ばれた南ベトナム解放民族戦線の模擬集落に対する攻撃訓練が行われた。

 当時の沖縄人民党の機関紙「人民」によると、64年8月に米統治の最高責任者であるワトソン高等弁務官がベトナム村で模擬ゲリラ戦を視察した。その際、乳幼児を連れた高江の住民約20人が動員され、現地民の役を演じさせられた。このほか訓練場周辺の住民が木材の切り出しに入った際に、米軍が仕掛けた落とし穴で重傷を負ったり、訓練中の兵士が演習地から外れて民家近くまで迫ったりしたことが度々あったという。

 北部訓練場は57年10月に北部海兵隊訓練場として使用が開始された。60年代には訓練場で枯れ葉剤が散布されていたと退役軍人が証言している。

 現在、訓練場の一部返還に伴うヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の工事が進み、高江の集落を取り囲むようにヘリパッドが新設されている。(安田衛) (琉球新報)

※写真のキャプション:北部海兵隊訓練場(当時)のゲリラ戦訓練施設「ベトナム村」。先端をとがらせた丸太を突き立て、外部からの攻撃に備えるベトナム現地の様子を模したとみられる様子が分かる=1964年ごろ、横堀洋一氏撮影

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# ベトナム戦争終結40年 報道ぶり1
40年前、大混乱のうちに、旧南ベトナムのアメリカ大使館の屋上からアメリカのヘリが飛び立って、ベトナム戦争は、北ベトナムの勝利に終わりました。今日4月30日は、その記念日です。長い戦争でした。戦場となった南北ベトナム、そして参戦国の被害も甚大でした。

日本の報道を見て見ましょう。毎日新聞からです。

 
ベトナム戦争:終結40年「過去水に流し未来見据える」
毎日新聞 2015年04月30日 19時40分(最終更新 04月30日 20時01分)
          
 
ベトナム戦争終結から40年の記念式典で、旗を掲げ行進する人たち=ベトナム南部ホーチミンで2015年4月30日、AP

 【バンコク岩佐淳士】ベトナム戦争終結から40年を迎えた30日、南部ホーチミンで記念式典が行われた。国営メディアによると、グエン・タン・ズン首相は式典で「アメリカ帝国主義」に対する勝利をたたえつつ「(ベトナムは)過去を水に流し未来を見据えている」と演説した。

 式典は当時、親米の南ベトナムの大統領官邸だった統一会堂で開かれ、市街地では軍のパレードも実施された。
 ベトナム戦争は1950年代に始まった。米ソ冷戦時代、国内は南北に分裂。米国は南ベトナムを支援し、60年代半ばから戦争に本格介入した。しかし、75年4月30日、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を攻め落とし、ベトナムを統一した。犠牲者数は米軍約5万8000人、ベトナム側約300万人。戦争中、米軍による村民の虐殺などが明らかになり、世界的に反戦運動が広がった。


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# ベトナム戦争終結から50年 越韓の動き2
昨日4月14日のアクセスは230でした。
皆さま ありがとうございます。

さて、今日のニュースは ニュース・ミンからの転載です。


セウォル号のリボンをつけたベトナム虐殺被害者、

軍靴の派越老人



ベトナム虐殺被害者が大邱を訪問...枯れ葉剤戦友会が抗議

パク・チュンヨプ記者 2015.04.10 16:13

#グエン・タン・ラン(当時15): 
午前4時、爆撃が始まった。 慌てて防空壕に入った。 7時から銃声が聞こえた。 ますます近づいてきた。 人々のうめき声が聞こえた。 お母さんは祈った。 16時、虎のマークを付けた軍人が出てこいと手まねをした。 お母さんに銃口を突きつけた。 老人や子供たちも引き出した。 丸く集まって座らせた。 頭を上げさせないようにした。 韓国軍が大声を上げた。 手榴弾が飛んできた。 腕と足が切れ、はらわたが、脳髄が流れた。 私のかかとに手榴弾が落ちた。 気絶し、目覚めた。 村の人々が妹を埋めた。 お母さんも埋めた。 お母さんの祈祷はとどかなかった。 私はまた気を失った。 また目を覚ますと、この世に私一人になっていた。

#グエン・ティ・タイン(当時8): 兄さんが先に出て行った。 銃で撃たれた。 五歳の弟は水際まで走った。 叔母は銃に撃たれなかった。 軍人たちが家に火を付けた。 叔母が驚いて立ち上がった。 刃物でめった切りにされた。 私は台所まで走った。 腹を銃で撃たれたのに痛くはなかった。 弟は息をするたびに血を吐いた。 抱けなかった。 助けるにはお母さんを探さなければならなかった。 突然喉が渇いた。 水を飲もうと頭を下げるとはらわたが出てきた。 押し込んでお母さんをまた探した。 また見つからなかった。
ベトナム戦争終戦40周年をむかえ、 民間人虐殺被害者たちが49日に大邱を訪問した。 グエン・ティ・タイン(NGUYEN THI THANH57)氏と グエン・タン・ラン(NGUYEN TAN LAN64)氏だ。

        
左からグエン・ティ・タイン、フイン・ゴック・ボン、グエン・タン・ラン氏
        
グエン・ティ・タイン氏は、フォンニィ・フォンニャット虐殺の生存者だ。 1968年に海兵隊青龍部隊は村住民70余人を虐殺した。 グエン・ティ・タイン氏は平和博物館(代表イ・ヘドン)の招きで韓国を訪問することになり、期待で膨らんでいた。 永い歳月が過ぎたので、韓国にくれば参戦軍人がきて手を握ってくれるかもしれない。 申し訳ないと言うかもしれない。

だが参戦軍人は、また軍服と軍靴で彼らを出迎えた。 アカの声を聞いた。 胸に長い間埋めておいた痛みがまた浮び上がった。

グエン・タン・ラン氏はビンディン省ビンアン村虐殺生存者だ。 1966年、海兵隊猛虎部隊が通った3日間で、近隣の15の村で民間人1004人が死亡した。

「私の心臓から申し上げます。 この話は体で体験した事実です。 歴史の真実を聞かせるためで、怨恨や憎しみのためではありません。 私は民間人虐殺の生存者です。 ありがとうございます」。 この日の夜に開かれた懇談会で彼が語った言葉だ。 グエン・タン・ラン氏は派越軍人を許した。 彼とグエン・ティ・タイン氏は胸にセウォル号の追慕リボンを付けた。

彼らと共に懇談会に参加した後、フン・ゴック・ヴァン(HUYNH NGOC VAN)ホーチミン市戦争証跡博物館長は、 「ベトナム戦争で3百万人が命を失った。 このうち2百万人は民間人だった。 2百万の負傷者が発生し、数知れない人々が枯れ葉剤で被害を受けた。 30万人以上の不明者がいる。 今も当時投下された不発弾で命を失う人がいる」とし 「戦争の惨状を知らせ、教訓を得ようということだ。 憎しみを持っているのではない。 不当な戦争自体が犯罪だ。 二度と起きないことを望む」と話した。


                      愛のベトナム支援隊・北村 元
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# ベトナム戦争終結から50年 越韓の動き1
愛のベトナム支援隊に協力をしてくださっている方々に、東北学院大学の野崎教授が、東北学院大学社会福祉研究所研究叢書が贈って送られて下さっています。
厚くお礼を申し上げます。
 
また、受け取った方々の中からも、野崎先生に丁寧なお礼状を書いて下さっている方がいらっしゃいます。ありがとうございました。
 
野崎先生からも連絡を頂いていますが、このブログを使って、お礼状を書いて下さった方に、感謝の気持ちを送ります。ありがとうございました。やはり、私たち奨学生に手紙の提出を義務付けており、お礼の気持ちを送って下さるのは、大変にうれしいです。
 
さて、今日から三回にわたって、ベトナムー韓国の間の動きをブログで取り上げます。まずは、ストレートに記事をそのままご紹介します。
 
まずは、412日付けの時事通信記事からです。

 
 
加害の歴史直視も=ベトナム戦被害者が

初訪韓−依然タブー視、根強い反発

                
元従軍慰安婦と共に日本大使館前の集会に参加するベトナム戦争被害者のグエン・ティ・タン氏(後列左)とグエン・タン・ラン氏(同右)=8日、ソウル

 【ソウル時事】韓国で、ベトナム戦争での韓国軍による民間人虐殺という加害の歴史を見詰め直す動きが出ている。「日本の責任を問う以上、過去の自らの過ちを直視すべきだ」と、被害者遺族2人を初めて韓国に招待。今年に入り、虐殺事件を取り上げた本も刊行された。しかし、依然韓国社会でこうした事実はタブー視され、反発も根強い。

 ◇日本責める前に自ら反省を

 韓国にとって、今年は解放70周年であると同時に、ベトナム戦争への本格参戦から50年、ベトナム戦争終戦から40年だ。虐殺地の様子などを記録した写真展がソウルで開催されるのに合わせ、ベトナムからグエン・タン・ラン氏(63)とグエン・ティ・タン氏(54)の男女2人が4〜10日、訪韓した。

 ラン氏は1000人以上の住民が殺された1966年のタイビン村事件、タン氏は住民74人が虐殺された68年のフォンニ・フォンヤット事件の生き残り。ラン氏の母と妹は事件で死亡し、自らも手りゅう弾の破片が体内に残る。タン氏は母、姉、弟ら家族・親戚5人を失い、自らも腹に銃弾を受け重傷を負った。

 招いた市民団体「平和博物館建立推進委員会」は、従軍慰安婦問題とベトナム問題の両方に取り組んできた。李海東理事長は「日本を責める前に、ベトナムに対する過ちを心からおわびしなければならない」と語った。

 7日の歓迎行事では、ラン氏が「過去の事実を直視するとき、真の協力関係を結べると思ってやってきた」と訴え、元参戦兵士が2人の前で土下座する場面もあった。2人は8日、「同じ戦争被害者として応援する」(タン氏)と、元慰安婦らが日本大使館前で毎週開いている「水曜集会」にも参加した。(2015/04/12-16:33


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# 訃報:ボー・グエン・ザップ将軍 死去

ボー・グエン・ザップ将軍が亡くなられました。

ベトナム外務省の計らいで、小生は、1対1(マスコミ用語でいう単独会見)でお目にかかったのが1990年代初めでした。ホーチミン市でお会いしました。

なんと、現統一会堂・・・かつての南ベトナム政権時代の大統領官邸での一室でした。

気力の充実した、記憶力の鮮明な方でした。

ご冥福をお祈りします。

共同通信の記事を引用します。


 【ハノイ共同】第1次インドシナ戦争とベトナム戦争で軍事作戦を指揮、ベトナムを勝利に導いた「救国の英雄」として知られるボー・グエン・ザップ将軍が4日、老衰のため、ハノイ市内の病院で死去した。102歳だった。複数のベトナム共産党筋が明らにした。 

 ザップ将軍は建国の父、故ホー・チ・ミン主席の側近としてベトナム人民軍を創設。1954年5月、旧宗主国フランスとの戦いで最高司令官として北部の要塞ディエンビエンフーを人海戦術で陥落させた。その2カ月後にジュネーブ協定が結ばれ、フランスによる植民地支配が終結。西側諸国では「赤いナポレオン」との異名を取った。

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