〜愛のベトナム支援隊〜 Love and Support Vietnam

枯れ葉剤被害者を支援しよう!寄付金受付中!今年の衣類は目標達成!ご協力ありがとうございました!

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# ご寄付を頂きました!

ご寄付を頂きましたので、御報告します。

    

2017年5月15日 森山 康子さま 千葉県 寄付金

   毎年、友好村でのスイカ割りの支援をしてくださっています。子どもたちの笑顔作りに、貢献してくださっています。「スイカを割る。割ったスイカも食べる・・」・・ベトナム友好村の子どもたちの年中行事になりました。

 

2017年5月15日 小林 恭子さま 千葉県 寄付金

   お母様の森山さまのご支援に共鳴されて、支援をしてくださっています。

 

2017年5月17日 東北学院大学経済学部共生社会経済学科 寄付金

    伊藤優作さま 遠藤良記さま 奥山寛也さま 糠澤圭太さま 

    千田絵理香さま 山田崇弘さま 横田絵美さま 吉田佳純さま

    渡邊佳奈子さま

2016年12月にベトナム北部の枯れ葉剤被害者の実情を知るために、大学のフィールドワークCとして、ベトナムを選んでくださいました。その時に、日本でも厚労省の指定難病160にもされている魚鱗癬症のタイン君、ミン君兄弟に出会いました。今回の寄付は、兄のタイン君の奨学金として申し出てくださいました。

 

2017年5月22日 ベトナムダイオキシンデー第7回日本実行委員会 寄付金

  今年は、VAVA本部のリン会長を迎えるために、一層の力が入っています。

   先日も勉強会を開かれました。

 

ベトナムの子どもたちに、関心を持ってくださっている方々からのご寄付です。ありがとうございます。

 

未来の世代を担う第三世代が宇宙代の大きな夢をもてるように・・・という支援に向け、少しでも前進したいと思います。

              

ありがとうございました。有効に使わせていただきます。

 

     会計:櫻井恵美子 責任者:北村  元

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| comments(0) | - | 10:38 | category: 寄付金 |
# ご寄付を頂きました!

このところ、当ブログのアクセスがふえています。3日ほど前から301、281、103・・という風に数字があがっています。

 

ご寄付を頂きました!

     

2017年5月1日 東谷いずみ 宮城県 寄付金

 

寄付金 ありがとうございました。

社会に出て2年目の東谷さん。職場で奮闘されていると思います。

お給料の中から出して下さっています。尊いお気持ちを大事にし、大切に使わせていただきます。

今年の奨学金に使わせていただくのは、去年8月に頂いた寄付金です。まさに、初任給からのご寄付です。今年頂いたご寄付は、来年の夏に、届けます。

宇宙大のお気持ちと言えます。頭が下がります。

 

      

 

     会計:櫻井恵美子 責任者:北村  元

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| comments(0) | - | 17:01 | category: 寄付金 |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(7)・完

絵画で見るホーチミン・トレイル(7)・完

 

昨日のアクセスが281となっていました。皆様 ありがとうございました。元気が出ます。

  

この絵は、「後方連絡基地」というタイトルです。

どのくらい後方なのかわかりません。チュオンソンの地名も出ていません。

   

 1954年に開かれたジュネーヴ会議で、ベトナムは南北分断されましたが、何ボー(南部)に残留した解放勢力に資金援助するために、北ベトナムは、南ベトナムの通貨ピアストルで支援をしました。当時は社会主義国からの支援はモノによる援助が中心だったので、北ベトナムの国家予算を使って主に香港でピアストルへと両替し、南ベトナムの解放勢力へピアストルで支援していました。15号決議以前は、毎年50万ドル相当の ピアストルが現地に送られていた(279頁)。

 

 1959年の15号決議以降、南ベトナムへの支援金額も増加し、1965年には1100万ドル相当のピアストルが支援されたが、これは1960年の支援金額と比較して128倍の額であった。1965年、特別外貨基金、通称 B29が立ちあげられました。

 

 南ベトナムへの解放勢力への支援は、現金をチュオンソン・ルートで運ぶ AM方式と、金融機関の外国送金で送るFM方式の二つがありました。

 

 陸路のAM方式では、アメリカ軍の爆撃を受けるために安定送金はできなくなり、1972年と73年の2年間だけで、503万6千ドル分の外貨が輸送中に失われたそうです。(出典:ダンフォン著の5つのホーチミン・ルートより)

 

連載の最後に、少しだけ南ベトナムの通貨ピアストルの話をしましょう。

(1)1875年にコーチシナ植民地(ベトナム南部)の発券銀行として創設されたインドシナ銀行は、フランスの領土拡大とともに北上し、サイゴンからハイフォン、ハノイとその拠点を移動させました。1930年から1954年まで、ハノイの現国家銀行を拠点としました。1920年以降、インドシナ銀行が発行するピアストル紙幣は、フランス領インドシナ全域で流通していました。

 

(2)ベトナム戦争の終末期、南ベトナムの首都サイゴンでは、陥落が目前に迫り、富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で国外への脱出を図りました。サイゴンのタンソンニャット空軍基地も狙われ、ベトナム航空、パンアメリカン航空、シンガポール航空などの民間航空機は4月26日全面的に飛行を停止しました。一般市民も南ベトナム政権崩壊を予測、南ベトナム通貨ピアストルを金、ダイヤモンド、アメリカドルに換金し、ピアストルの価値が暴落したものです。

 

この連載は、もう少し続ける計画でしたが、夏の支援ツアーの準備にかからなくてはならず、残念ながら、今回で終わりにします。

ご声援ありがとうございました。

 

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| comments(0) | - | 16:44 | category: ホーチミン・トレイル |
# ご寄付を頂きました!

ご寄付を頂きました!

 

4月24日 鈴木 志郎さま 幸子さま 東京都 寄付金

    

今年も、奨学金として寄付金を奥って下さいました。

ほんとうにありがとうございました。

 

枯れ葉剤被害では、第二世代の被害者のあと、第三世代の被害者もでています。しかし、第三世代は、今まで公助の対象とはなっていませんでした。被害者の声に応えて、いち早く、タインホア省枯れ葉剤被害者協会が,省内のほぼ全員の調査を終えました。

 

医学的、血液学的にも、質の高い調査であることを願っていますが、いよいよ第三世代の被害者を公助の対象にしようという機運がこれで高まっていけばいいと思います。被害者家族のご苦労が少しでも改善されることを、願っています。

 

      

被害者世帯の子弟が勉学の機会を失わないようにするために、子どもたちが飛翔できるように、貴重なご寄付を有効に使わせていただきます。

 

ありがとうございました。

 

       愛のベトナム支援隊
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会計・桜井恵美子 責任者・北村 元
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| comments(0) | - | 17:01 | category: 寄付金 |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(6)

 

絵画で見るホーチミン・トレイル(6)

 

 

    

 

ゲアン省のケヴェから隣国ラオスに入って南下、南ベトナム、ラオス、カンボジアの3国国境のトライアングル地点で南ベトナムに入り、終点ビン・フォック省のブー・ザ・マップまで。ホーチミン・ルートは、南ベトナム解放民族戦線に食糧や武器、弾薬など戦略物資を送る支援の大動脈でした。特に、ブー・ザ・マップは、地政学的にも山の台地から平野へと移行するところに位置している、戦略的に極めて重要な位置を占めており、経済、政治、安全保障の面でもキーポイントだといわれています。

   

上の絵は、プロパガンダの画像です。

下の絵は、前線の司令官会議の模様です。

   

 ベトナム共和国統治下の南ベトナムで、南ベトナム解放民族戦線が結成されたのが、1960年12月20日でした。反米であり、反ゴ・ディン・ジエム政権を掲げました。カンボジア国境沿いのタイニン省のある村に集まったメンバーは、党員以外にも労働組合、農民同盟、青年同盟、学生などでし。議長はグェン・フー・ト。

 

彼は、1930年代にフランスに留学。サイゴン (現ホーチミン市) で弁護士を開業。 47年から抗仏闘争に参加,50年3月アメリカの対仏軍事援助反対デモを指導して逮捕,入獄し、52年出獄しました。 54年サイゴンのチョロン地区平和委員会を設立し副議長となるが,まもなくゴ・ディン・ジエム政府によって逮捕されました。

 

釈放後 62年南ベトナム解放民族戦線中央委員会幹部会議長,69年6月臨時革命政府樹立とともに諮問評議会議長。 76年4月統一国民議会選挙に当選,同年7月ベトナム社会主義共和国副大統領に就任。 80年3月トン・ドク・タン大統領の死により大統領代行。 81年から国会議長,国家評議会副議長,ベトナム祖国戦線中央委員会幹部会議長,同戦線名誉議長を歴任した人です。

 

解放戦線の組織としてはベトナム労働党南部中央局の指導を受ける、幅広い統一戦線でした。1年間に組織を拡大させ、以後、ベトナム戦争での抗米救国の中心としてゲリラ戦を展開し、アメリカ側から「ベトコン」(ベトナム人の共産主義者)と言われて恐れられた。

 

下の絵は、「ネコ」と呼ばれた重点区の模様です。

   
 解放戦線は、ナパーム弾、高速ヘリ、枯れ葉剤などを用いたアメリカ軍の攻撃に対し、南ベトナムのジャングルでゲリラ戦で抵抗、容易に屈しなかった。大量の兵員と物資を投入したアメリカ軍は解放戦線を制圧することができず、犠牲も増大していった。解放戦線側は、隣国カンボジアを通るいわゆるホー=チ=ミンルートによって北ベトナムから武器や食糧の補給を受け、有利なゲリラ戦を展開した。


 アメリカ首脳もベトナム戦争の収束を検討し始め、1968年からパリ和平会議が始まった。有利な講和条件を得るため、ニクソンは解放戦線支援ルートを断つために70年にカンボジアに侵攻、、さらに翌年にはラオスを空爆しました。

 

 しかし、カンボジア、ラオスでも民衆の抵抗は根強くく、アメリカ軍は作戦に失敗しました。

 

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| comments(0) | - | 12:52 | category: ホーチミン・トレイル |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(5)

絵画で見るホーチミン・トレイル(5)

 

南ベトナム戦場でのアメリカ軍兵士はかなりのストレスがたまったろうと思います。

 

姿の見えないベトコン・ゲリラとの対峙。自然という敵とも対峙しなければなりませんでした。四季のある北ベトナムとは違って、南ベトナムでは、乾季と 雨季しかありません。

    

この絵には、「チュオンソン山脈の重点地Tha me 1968年の乾季」という題名が付けられています。はげ山が周囲にあり、木は爆撃でやられたか・・・朽ちています。枯れ葉剤での被害とはちょっと違うように思いますが、断定はできません。天蓋がはがされたような印象をうけます。

 

1965年にアメリカ軍は、直接介入に踏み切りました。559部隊は軍区扱いとして格上げになりました。ファン・チョン・トゥエ輸送交通部長少将が司令と政治委員を兼務し、ヴォー・バムは副司令となりました。

 

この時すでに、チュオンソン山脈ルートは雨期でも輸送できる態勢を整え、S1、S2、S3と呼ばれる3つのルー トが確保されました。この時期までに559部隊は31,762名の人員(うち27,462名の軍人、4,500名の青年突撃隊と民工)を抱え、2,972台(うち2,100台の輸送車両、872台の戦闘車両)の車両、190門の対空砲、138台の工事車両、34台の爆弾探知機を所有したと、ダン・フォンは書いています。

 

この下の絵には、「森の夜」と題名がつけられています。

右側の黒い塊が物資を運んでいる兵士でしょう。左には、三日月がみえています。物資を運ぶトラックもえがかれていますね。

    

ある兵士の話では、夜の行軍は、小さい明かりを後ろ向きにつけて、後ろにいる人の助けにするそうです。

行軍は、原則として、夜となります。そして行軍中は、夜明けから夕方までが兵士の休息になります。

この絵には、そんな姿が描かれているのでしょうか。

 

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| comments(0) | - | 10:21 | category: ホーチミン・トレイル |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(4)

絵画で見るホーチミン・トレイル(4)

   

上の写真には、「ホーチミン大路」という題名がついています。道路工事現場で、測量をする人、記録を取る人、荷解きをする人を描いた絵です。天蓋もなく、アメリカ軍の空爆に遭いそうな現場ですね。

 

1959年 1 月のベトナム労働党第15回中央委員会で、15号決議が行われ,南の民族解放運動を武力闘争として位置づけたといえます。この決議が、60年 9 月の第 3 回党大会で南部における人民民主民族革命の推進を決議し,1960年12月に南ベトナム解放民族戦線の創設へとつながっていきます。

 

 南ベトナムでの軍事行動強化を決定した15号決議が出された後、1959年5月19日にチュオ ンソン山脈ルートを通って南ベトナムへの輸送を行なう559部隊(Đoàn 559)が設立され、初代指揮官にヴォー・バム(Võ Bẩm)が任命されたことは、前にもかきました。

 

   

この絵のタイトルは、「5区での初めての運搬物(届けもの)」となっています。武器弾薬が、絵から見る限り含まれていそうですね、

 

使用された武器などは、北ベトナム軍が関与していることをカムフラージュするために、抗仏戦争時代にフランス軍が使用していた武器が運ばれ、ソ連(当時)や中国製の武器は使用しないなど細心の注意をはらっていました。(ダン・フォン著要旨)

 

1959年7月までには北ベトナムからベトナム中部の第5区までチュオンソン山脈ルートの一部が開設され、9つの中継所が整備された。9カ所中継所のうち5つは国道9号線(ラオスからドン・ハーへ抜ける主要幹線道路)の北に、1つは9号線沿いに、残りの3つは9号線の南に設けられました。この9号線の西端には、有名なケサイン基地があり、さらに、激戦地ダクロン、枯れ葉剤被害者の多いカムローがあります。9号線の東端はドンハーです。その南には、アイ・トゥなどの町があります。

 

1959年7月20日に初めての輸送が行なわれ、武器や弾薬、薬、信書などの補給が行なわれた。同年8月13日から12月31日までに、1,667丁の歩兵銃、712丁の自動小銃、72丁の軽 機関銃、250,000発の各種弾薬、180キロの TNT 爆弾、そして542名の人員を南ベトナムへ送っ た。(ダン・フォン著より要旨)

 

二枚目の絵は、そういうことを物語っているのです。

今回は、以上です。

 

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| comments(0) | - | 10:10 | category: ホーチミン・トレイル |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(3)

絵画で見るホーチミン・トレイル(3)

   

架橋工事中か、橋の修理作業中なのでしょうか、水に浸かりながら、若い兵士が働いています。危険な地点にある橋という題がついています。川で車をわたそうとしているのでしょうか?、

 

かつて、ボ−・グエン・ザップ将軍は、「ひとたび戦争が起きたら、全員で戦わなくてはならない。全員が戦わなければ勝てない。抗米戦争中に、軍隊だけで戦闘していたら勝てなかった。国民が参加してこそ勝てるのだ」と言いました。 

 

これはイデオロギ−戦争の特徴でもあるが、イデオロギ−戦争になれば、戦闘員は当然のこと、非戦闘員も立ち上がらなくてはなりません。一騎当千の力を持たなくてはならないし、一人当千の意識も必要となってくるでしょう。まして国土が戦場となり、アメリカの跳梁を許さぬとなれば戦闘員、非戦闘員の区別はなくなってくるはずです。ちなみに、ベトナムは戦術面では、「人民戦争」「全人民防衛」の理論を採用している。これは、ベトナム人民軍創設当時から戦術論で、正規軍、地方人民軍、自衛民兵を3本柱として敵を迎え撃つ体制を取るものです。ですから、職業軍人のみならず、いろいろな階層の人が戦争に参加したのです。

 

ホーチミン・ルートの建設もまさに希有壮大な発想でした。

 

中国の大文豪・魯迅先生の言葉に、こうあります。

 「路とは何か。それは、路のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」(竹内好訳『魯迅作品集3』筑摩書房)

 

タイムズ紙(日付不明)は、こう書いています。

「1959年以来、800マイルにも及ぶ密林とどろどろの河川の中の入り組んだル−トが、4万5千人の兵士が北部から南部に侵入する主要ル−トになった。月平均4、500人が通過していく。ル−トの半分は改良されて、盛り土をして2台のトラックが並行して走れるように東部の道路に入れるようになった。現在では、数千の北ベトナム兵がラオスの”フライパンの柄”地域に常駐し、ル−トを防衛している」

 

言うまでもなく多くの人が、このルートづくりに動員されたのです。ニンビン省のチャン・ティビンさんは、年齢を水増しし、血判状をかいてまで、559部隊を志願し、戦場に参加しました。

 

かつてのヴォー・ティ・サウさんという、うら若い女性がいました。ヴォー・ティ・サウ( Võ Thị Sáu / 武氏六、1933年 - 1952年3月13日)、本名グエン・ティ・サウ(Nguyễn Thị Sáu / 阮氏六)という人は、フランスのベトナム支配に対してゲリラ戦を行ったベトナム女学生。彼女はフランスに逮捕され、1952年にコンダオ刑務所で処刑されたが、その後ベトナムの国民的英雄と称えられました。

     

      ベトナムの教科書に描いてあるヴォー・ティー・サウのイメージ

 

このようなベトナム人女性に対し、ホーチミンさんは尊敬と感謝の念を込めて、金の8文字「Anh hùng, bt khut, trung hu, đm đang」(勇気、不屈、正直、優しい)を送りました。

 

ベトナム人の女性は、いつも自らの役割を強く意識しています。労働では、真面目な努力家で、知性的に、常に改善を心がけています。生活の中では、彼らは家庭の幸福を守る人で、子供の教育を担当し、民族の伝統的なことを維持して促進しています。戦争でも、女性は後方支援として活躍するに限らず、戦士としても戦争に参加しました。そして、祖国のために尽くした夫や子供を持つ女性も、「M Vit Nam anh hùng」と呼ばれています。意味はベトナム人のヒーローのお母さんという意味です。

 

ベトナム戦争で枯れ葉剤の被害を受けた地域の一つに南部のベンチェ省があります。当時ベンチェ省共産党党首であったグエン・ティ・ディン(Bo Nguyn Th Đnh)将軍が率いる女性部隊が米軍と戦ったことでも知られています。

   

    題名は、チュオンソンの夕方・・となっています。日が射している所、日陰になった所が描かれています。日向には長髪の女性兵士、日陰では、ハンモックで休む兵士たちがいますね。

 

もともとホーチミンルートにほとんどの人がもっている一般的な印象は、「陸路のホーチミンルート」でしょう。しかし、実際は、海のホーチミンルートがあったことがわかっています。その概要は、かなり前から話で聞いてはいましたが、なかなか実感できませんでした。ほかにも、あと三つのルートがあったといわれますが、このことはまたいずれお話ししましょう。

 

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| comments(0) | - | 13:01 | category: ホーチミン・トレイル |
# 絵画で見るホーチミン・トレイル(2)

絵画で見るホーチミン・トレイル(2)

 

チュオンソン山脈ルートの整備が正式に決定されたのは1959年に開催されたベトナム労働党第15回中央委員会議での15号決議以降です。15号決議は、南ベトナムで、南ベトナム政府を革命でひっくり返すことを照準にし、その方法として 軍事的な手段で行うことが決められていました。

 

1959年1月13日 北ベトナム労働党第15回拡大中央委員会が開かれます。ホーチミンの指名で、レ・ズアンが基調報告を行い、休会の後、5月に再開され、ベトナム労働党「第15号決議」と呼ばれる南ベトナム政府への戦いが国家意思として表現されます。


つまり、平和、民主、中立的な南ベトナムの建設のため、
ゴ・ディン・ジエム独裁を打倒
南部に民族民主連合政権を樹立
独立と民主に基づく国家統一を実現
東南アジアと世界の平和の防衛に積極的に貢献する

 

という内容です。
     

 

この絵画の説明には、チュオンソン路の展望台となっていますが、むしろ見張り台・監視所と訳した方が当たっているでしょう。地面から木の幹にそって、縄ばしごが伸びているのが分かりますか? 場所はかかれていませんので、特定することはできません。山が周囲に見えるので、盆地に相当するところかもしれません。

 

     

この女性の説明には、青年奉仕隊の女性となっています。つまり、青年先鋒隊でしょうか。かつてのベトナム女性らしく、長い髪を肩から左脇下に流しています。いずれにしても、559部隊所属です。彼女がどういう任務についていたかわかりませんが、洗濯ものが乾かない雨季の戦場の生活をどのように、耐えの忍んだか、聞いてみたいものです。いや、その前に、生きて故郷に帰ることができたのでしょうか。

 

多くの女性は、身体も頻繁に洗えず気持ちの悪い日々を過ごしたに違いありません。

こんなに身ぎれいにしている彼女ですが、任務はコンビン(工兵)であったと信じて疑いません。元工兵の559部隊の女性たちも、元気でニンビン省で暮らしています。下の写真がそうです。

   

戦争中、ニンビン省からは、五百数十人の女性が戦場に行きました。一人だけ男性兵士が写っています。

 

青年先鋒隊で思い出しました。ニンビン省に、ホアンロン・リハビリセンターという医療所があります。かつて、戦場での戦いで、多くの兵士がPTSDに見舞われました。

私が、ホアンロン・リハビリセンターに行っている時に、PTSDになった旧兵士の話を書き取ったメモが残っています。

 

ひとりの男性が、私たちに近寄ってきた。やさしい話し方で話しかける。


「社会の優しさは、川や海のように広い。天地は無限で、哀れみの情を決して阻めない。こういう点は、ベトナム人は中国人とそっくりなんだ。中国人は、その時に、先生の家にやってきた。私のふるさとヴィンフーでの破壊戦争の時に、中国人の一団がやってきた。先生は六ハオのサトウキビを売って、中国軍はそれを買ったんだ。サトウキビが大きくなったら、中国軍がその後、雲南省に持って行って国際無産階級ができたんだ。私は、こうして、祖国中国に別れを告げた。世界人民、万歳! 青年先鋒隊、少年先鋒隊…カメラマンの皆さん、さようなら

 

と言って、私の前を去っていきました。

 

今回は、このへんで。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(1)

絵画で見るホーチミン・トレイル(1)

 

昨年12月に、東北学院大学の野崎先生と学生さん9名で、旧ハタイ省(現在ハノイ市に編入された)にあった559部隊博物館(現ホーチミン・トレイル博物館)を訪れた時に、入場券についてきた「チュオンソン・ルート50年」の絵葉書風の絵画を記念品としてもらったものを、これから10回ほどにわたってご紹介します。

 

ベトナム戦争中のチュオンソン山脈のことが多少でも分かっていただけれうなら、ありがたいです。チュオンソン山脈は、かつてはアンナン山脈(安南)とも呼ばれていたところです。

 

ご紹介する私も、それほど詳しくありませんので、少ししか説明できません。

 

ご覧下さい。

                                                                                                     

これは、ボーグエン・ザップ将軍の直筆の写真です。

     

これらのスケッチ、絵はチュオンソン兵士の精力と戦闘の勇気さを表しています。今回の展示室(ギャラリー)にはチュオンソン通りーホーチミン通りという忘れることのできない民族の雄大な作業を記録することができました。

 

 ヴォー・グエン・ザップ     1993年5月

と書かれています。

 

ザップ将軍がサインした1993年は、ホーチミンさンが亡くなって24年目の年になります。日付けが入っていませんが、ヴォー・グエン・ザップさんのことですから、ホーチミンさんの誕生日の5月19日に書かれたのではないかと推測します。

 

写真の右側が、言わずと知れたホーチミンさんです。

   

さて、サインをしたヴォー・グエン・ザップ(漢字:武元甲)は、抗仏、抗米戦争を勝利に導いたベトナムの伝説的名将でした。2013年10月4日に、102歳の生涯を閉じました。軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍総司令官。最終階級は大将でした。

 

優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配の際、ディエン・ビエン・フーの戦いで、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム政府軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力になりました。その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ 、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めました。

 

正式な軍事教育を受けていないところがザップ将軍の真骨頂で、教師時代に読んだ孫子、ナポレオン、ロレンスなどの書物や、ゲリラ闘争を通じて独学で軍事知識を身に着けたようです。そのことから自らを「独学の将軍」と呼び、「藪の軍事学校に通った」と語っていました。

 

私は、ザップ将軍に、ホーチミン市の統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)でお会いしました。趣味が幅広く、音楽はベートーベンやリストが大好き、読書は、前述のように西洋文学を耽読されていました。ご自身はピアノ演奏ができます。ピアノを習い始めたのは、ベトナム戦争が本格化する直前の63年からで、多忙にもかかわらず練習を一度も休まず、2年後には『エリーゼのために』を弾きこなすまでに上達したといいます。意外な面です。

 

写真の左側の方は、ヴォー・バム少将といいます。彼は、クアンガイ生まれで、1974年に少佐になりました。

 

上の絵には、チュオンソン小路の開通についてホーおじさんに報告するヴォー・バム同志・・という題名がついています。年代は1959年となっていますので、少なくとも初期の目的をその年代である程度果たしたことがうかがえます。

 

人民軍でのヴォー・バム将軍は、559部隊の創設です。559部隊は、ベトナムからラオスを通って南ベトナムへ補給路を開く責任を負った部5のことです。1959年5月にボーグエンザップ将軍は、南部での侵略的な闘争に乗り気でなく、ヴォーバム将軍に、ラオス東部を通って南ベトナムに軍事物資を運ぶ秘密のプロジェクトを始めるように命じました。

 

ヴォ―・バムは559輸送部隊を組織し、すぐさま工事を始めました。同時に、その7月に組織された759部隊は、海上での補給ルートをセットすることになりました。しかしながら、陸路の補給ルートは、南部における造反活動のための補給手段としては春かに重要でした。

 

ヴォー・バム将軍の559部隊は、やがて南部へ目につかない形で補給ルートを開きました。年とともに、ルートは拡充し、高度に発展し、敵のアメリカ軍にも知られ、この連絡網はホーチミン・トレイルとよばれるようになり、ハノイの軍事勝利に欠かすことのできない戦略路になりました。

 

559部隊は、ラオスの共産軍パテト・ラオにも物資を供給しました。

 

こんなところが、頭にうかんでくる説明です。

 

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