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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(6)

 

絵画で見るホーチミン・トレイル(6)

 

 

    

 

ゲアン省のケヴェから隣国ラオスに入って南下、南ベトナム、ラオス、カンボジアの3国国境のトライアングル地点で南ベトナムに入り、終点ビン・フォック省のブー・ザ・マップまで。ホーチミン・ルートは、南ベトナム解放民族戦線に食糧や武器、弾薬など戦略物資を送る支援の大動脈でした。特に、ブー・ザ・マップは、地政学的にも山の台地から平野へと移行するところに位置している、戦略的に極めて重要な位置を占めており、経済、政治、安全保障の面でもキーポイントだといわれています。

   

上の絵は、プロパガンダの画像です。

下の絵は、前線の司令官会議の模様です。

   

 ベトナム共和国統治下の南ベトナムで、南ベトナム解放民族戦線が結成されたのが、1960年12月20日でした。反米であり、反ゴ・ディン・ジエム政権を掲げました。カンボジア国境沿いのタイニン省のある村に集まったメンバーは、党員以外にも労働組合、農民同盟、青年同盟、学生などでし。議長はグェン・フー・ト。

 

彼は、1930年代にフランスに留学。サイゴン (現ホーチミン市) で弁護士を開業。 47年から抗仏闘争に参加,50年3月アメリカの対仏軍事援助反対デモを指導して逮捕,入獄し、52年出獄しました。 54年サイゴンのチョロン地区平和委員会を設立し副議長となるが,まもなくゴ・ディン・ジエム政府によって逮捕されました。

 

釈放後 62年南ベトナム解放民族戦線中央委員会幹部会議長,69年6月臨時革命政府樹立とともに諮問評議会議長。 76年4月統一国民議会選挙に当選,同年7月ベトナム社会主義共和国副大統領に就任。 80年3月トン・ドク・タン大統領の死により大統領代行。 81年から国会議長,国家評議会副議長,ベトナム祖国戦線中央委員会幹部会議長,同戦線名誉議長を歴任した人です。

 

解放戦線の組織としてはベトナム労働党南部中央局の指導を受ける、幅広い統一戦線でした。1年間に組織を拡大させ、以後、ベトナム戦争での抗米救国の中心としてゲリラ戦を展開し、アメリカ側から「ベトコン」(ベトナム人の共産主義者)と言われて恐れられた。

 

下の絵は、「ネコ」と呼ばれた重点区の模様です。

   
 解放戦線は、ナパーム弾、高速ヘリ、枯れ葉剤などを用いたアメリカ軍の攻撃に対し、南ベトナムのジャングルでゲリラ戦で抵抗、容易に屈しなかった。大量の兵員と物資を投入したアメリカ軍は解放戦線を制圧することができず、犠牲も増大していった。解放戦線側は、隣国カンボジアを通るいわゆるホー=チ=ミンルートによって北ベトナムから武器や食糧の補給を受け、有利なゲリラ戦を展開した。


 アメリカ首脳もベトナム戦争の収束を検討し始め、1968年からパリ和平会議が始まった。有利な講和条件を得るため、ニクソンは解放戦線支援ルートを断つために70年にカンボジアに侵攻、、さらに翌年にはラオスを空爆しました。

 

 しかし、カンボジア、ラオスでも民衆の抵抗は根強くく、アメリカ軍は作戦に失敗しました。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(5)

絵画で見るホーチミン・トレイル(5)

 

南ベトナム戦場でのアメリカ軍兵士はかなりのストレスがたまったろうと思います。

 

姿の見えないベトコン・ゲリラとの対峙。自然という敵とも対峙しなければなりませんでした。四季のある北ベトナムとは違って、南ベトナムでは、乾季と 雨季しかありません。

    

この絵には、「チュオンソン山脈の重点地Tha me 1968年の乾季」という題名が付けられています。はげ山が周囲にあり、木は爆撃でやられたか・・・朽ちています。枯れ葉剤での被害とはちょっと違うように思いますが、断定はできません。天蓋がはがされたような印象をうけます。

 

1965年にアメリカ軍は、直接介入に踏み切りました。559部隊は軍区扱いとして格上げになりました。ファン・チョン・トゥエ輸送交通部長少将が司令と政治委員を兼務し、ヴォー・バムは副司令となりました。

 

この時すでに、チュオンソン山脈ルートは雨期でも輸送できる態勢を整え、S1、S2、S3と呼ばれる3つのルー トが確保されました。この時期までに559部隊は31,762名の人員(うち27,462名の軍人、4,500名の青年突撃隊と民工)を抱え、2,972台(うち2,100台の輸送車両、872台の戦闘車両)の車両、190門の対空砲、138台の工事車両、34台の爆弾探知機を所有したと、ダン・フォンは書いています。

 

この下の絵には、「森の夜」と題名がつけられています。

右側の黒い塊が物資を運んでいる兵士でしょう。左には、三日月がみえています。物資を運ぶトラックもえがかれていますね。

    

ある兵士の話では、夜の行軍は、小さい明かりを後ろ向きにつけて、後ろにいる人の助けにするそうです。

行軍は、原則として、夜となります。そして行軍中は、夜明けから夕方までが兵士の休息になります。

この絵には、そんな姿が描かれているのでしょうか。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(4)

絵画で見るホーチミン・トレイル(4)

   

上の写真には、「ホーチミン大路」という題名がついています。道路工事現場で、測量をする人、記録を取る人、荷解きをする人を描いた絵です。天蓋もなく、アメリカ軍の空爆に遭いそうな現場ですね。

 

1959年 1 月のベトナム労働党第15回中央委員会で、15号決議が行われ,南の民族解放運動を武力闘争として位置づけたといえます。この決議が、60年 9 月の第 3 回党大会で南部における人民民主民族革命の推進を決議し,1960年12月に南ベトナム解放民族戦線の創設へとつながっていきます。

 

 南ベトナムでの軍事行動強化を決定した15号決議が出された後、1959年5月19日にチュオ ンソン山脈ルートを通って南ベトナムへの輸送を行なう559部隊(Đoàn 559)が設立され、初代指揮官にヴォー・バム(Võ Bẩm)が任命されたことは、前にもかきました。

 

   

この絵のタイトルは、「5区での初めての運搬物(届けもの)」となっています。武器弾薬が、絵から見る限り含まれていそうですね、

 

使用された武器などは、北ベトナム軍が関与していることをカムフラージュするために、抗仏戦争時代にフランス軍が使用していた武器が運ばれ、ソ連(当時)や中国製の武器は使用しないなど細心の注意をはらっていました。(ダン・フォン著要旨)

 

1959年7月までには北ベトナムからベトナム中部の第5区までチュオンソン山脈ルートの一部が開設され、9つの中継所が整備された。9カ所中継所のうち5つは国道9号線(ラオスからドン・ハーへ抜ける主要幹線道路)の北に、1つは9号線沿いに、残りの3つは9号線の南に設けられました。この9号線の西端には、有名なケサイン基地があり、さらに、激戦地ダクロン、枯れ葉剤被害者の多いカムローがあります。9号線の東端はドンハーです。その南には、アイ・トゥなどの町があります。

 

1959年7月20日に初めての輸送が行なわれ、武器や弾薬、薬、信書などの補給が行なわれた。同年8月13日から12月31日までに、1,667丁の歩兵銃、712丁の自動小銃、72丁の軽 機関銃、250,000発の各種弾薬、180キロの TNT 爆弾、そして542名の人員を南ベトナムへ送っ た。(ダン・フォン著より要旨)

 

二枚目の絵は、そういうことを物語っているのです。

今回は、以上です。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(3)

絵画で見るホーチミン・トレイル(3)

   

架橋工事中か、橋の修理作業中なのでしょうか、水に浸かりながら、若い兵士が働いています。危険な地点にある橋という題がついています。川で車をわたそうとしているのでしょうか?、

 

かつて、ボ−・グエン・ザップ将軍は、「ひとたび戦争が起きたら、全員で戦わなくてはならない。全員が戦わなければ勝てない。抗米戦争中に、軍隊だけで戦闘していたら勝てなかった。国民が参加してこそ勝てるのだ」と言いました。 

 

これはイデオロギ−戦争の特徴でもあるが、イデオロギ−戦争になれば、戦闘員は当然のこと、非戦闘員も立ち上がらなくてはなりません。一騎当千の力を持たなくてはならないし、一人当千の意識も必要となってくるでしょう。まして国土が戦場となり、アメリカの跳梁を許さぬとなれば戦闘員、非戦闘員の区別はなくなってくるはずです。ちなみに、ベトナムは戦術面では、「人民戦争」「全人民防衛」の理論を採用している。これは、ベトナム人民軍創設当時から戦術論で、正規軍、地方人民軍、自衛民兵を3本柱として敵を迎え撃つ体制を取るものです。ですから、職業軍人のみならず、いろいろな階層の人が戦争に参加したのです。

 

ホーチミン・ルートの建設もまさに希有壮大な発想でした。

 

中国の大文豪・魯迅先生の言葉に、こうあります。

 「路とは何か。それは、路のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」(竹内好訳『魯迅作品集3』筑摩書房)

 

タイムズ紙(日付不明)は、こう書いています。

「1959年以来、800マイルにも及ぶ密林とどろどろの河川の中の入り組んだル−トが、4万5千人の兵士が北部から南部に侵入する主要ル−トになった。月平均4、500人が通過していく。ル−トの半分は改良されて、盛り土をして2台のトラックが並行して走れるように東部の道路に入れるようになった。現在では、数千の北ベトナム兵がラオスの”フライパンの柄”地域に常駐し、ル−トを防衛している」

 

言うまでもなく多くの人が、このルートづくりに動員されたのです。ニンビン省のチャン・ティビンさんは、年齢を水増しし、血判状をかいてまで、559部隊を志願し、戦場に参加しました。

 

かつてのヴォー・ティ・サウさんという、うら若い女性がいました。ヴォー・ティ・サウ( Võ Thị Sáu / 武氏六、1933年 - 1952年3月13日)、本名グエン・ティ・サウ(Nguyễn Thị Sáu / 阮氏六)という人は、フランスのベトナム支配に対してゲリラ戦を行ったベトナム女学生。彼女はフランスに逮捕され、1952年にコンダオ刑務所で処刑されたが、その後ベトナムの国民的英雄と称えられました。

     

      ベトナムの教科書に描いてあるヴォー・ティー・サウのイメージ

 

このようなベトナム人女性に対し、ホーチミンさんは尊敬と感謝の念を込めて、金の8文字「Anh hùng, bt khut, trung hu, đm đang」(勇気、不屈、正直、優しい)を送りました。

 

ベトナム人の女性は、いつも自らの役割を強く意識しています。労働では、真面目な努力家で、知性的に、常に改善を心がけています。生活の中では、彼らは家庭の幸福を守る人で、子供の教育を担当し、民族の伝統的なことを維持して促進しています。戦争でも、女性は後方支援として活躍するに限らず、戦士としても戦争に参加しました。そして、祖国のために尽くした夫や子供を持つ女性も、「M Vit Nam anh hùng」と呼ばれています。意味はベトナム人のヒーローのお母さんという意味です。

 

ベトナム戦争で枯れ葉剤の被害を受けた地域の一つに南部のベンチェ省があります。当時ベンチェ省共産党党首であったグエン・ティ・ディン(Bo Nguyn Th Đnh)将軍が率いる女性部隊が米軍と戦ったことでも知られています。

   

    題名は、チュオンソンの夕方・・となっています。日が射している所、日陰になった所が描かれています。日向には長髪の女性兵士、日陰では、ハンモックで休む兵士たちがいますね。

 

もともとホーチミンルートにほとんどの人がもっている一般的な印象は、「陸路のホーチミンルート」でしょう。しかし、実際は、海のホーチミンルートがあったことがわかっています。その概要は、かなり前から話で聞いてはいましたが、なかなか実感できませんでした。ほかにも、あと三つのルートがあったといわれますが、このことはまたいずれお話ししましょう。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(2)

絵画で見るホーチミン・トレイル(2)

 

チュオンソン山脈ルートの整備が正式に決定されたのは1959年に開催されたベトナム労働党第15回中央委員会議での15号決議以降です。15号決議は、南ベトナムで、南ベトナム政府を革命でひっくり返すことを照準にし、その方法として 軍事的な手段で行うことが決められていました。

 

1959年1月13日 北ベトナム労働党第15回拡大中央委員会が開かれます。ホーチミンの指名で、レ・ズアンが基調報告を行い、休会の後、5月に再開され、ベトナム労働党「第15号決議」と呼ばれる南ベトナム政府への戦いが国家意思として表現されます。


つまり、平和、民主、中立的な南ベトナムの建設のため、
ゴ・ディン・ジエム独裁を打倒
南部に民族民主連合政権を樹立
独立と民主に基づく国家統一を実現
東南アジアと世界の平和の防衛に積極的に貢献する

 

という内容です。
     

 

この絵画の説明には、チュオンソン路の展望台となっていますが、むしろ見張り台・監視所と訳した方が当たっているでしょう。地面から木の幹にそって、縄ばしごが伸びているのが分かりますか? 場所はかかれていませんので、特定することはできません。山が周囲に見えるので、盆地に相当するところかもしれません。

 

     

この女性の説明には、青年奉仕隊の女性となっています。つまり、青年先鋒隊でしょうか。かつてのベトナム女性らしく、長い髪を肩から左脇下に流しています。いずれにしても、559部隊所属です。彼女がどういう任務についていたかわかりませんが、洗濯ものが乾かない雨季の戦場の生活をどのように、耐えの忍んだか、聞いてみたいものです。いや、その前に、生きて故郷に帰ることができたのでしょうか。

 

多くの女性は、身体も頻繁に洗えず気持ちの悪い日々を過ごしたに違いありません。

こんなに身ぎれいにしている彼女ですが、任務はコンビン(工兵)であったと信じて疑いません。元工兵の559部隊の女性たちも、元気でニンビン省で暮らしています。下の写真がそうです。

   

戦争中、ニンビン省からは、五百数十人の女性が戦場に行きました。一人だけ男性兵士が写っています。

 

青年先鋒隊で思い出しました。ニンビン省に、ホアンロン・リハビリセンターという医療所があります。かつて、戦場での戦いで、多くの兵士がPTSDに見舞われました。

私が、ホアンロン・リハビリセンターに行っている時に、PTSDになった旧兵士の話を書き取ったメモが残っています。

 

ひとりの男性が、私たちに近寄ってきた。やさしい話し方で話しかける。


「社会の優しさは、川や海のように広い。天地は無限で、哀れみの情を決して阻めない。こういう点は、ベトナム人は中国人とそっくりなんだ。中国人は、その時に、先生の家にやってきた。私のふるさとヴィンフーでの破壊戦争の時に、中国人の一団がやってきた。先生は六ハオのサトウキビを売って、中国軍はそれを買ったんだ。サトウキビが大きくなったら、中国軍がその後、雲南省に持って行って国際無産階級ができたんだ。私は、こうして、祖国中国に別れを告げた。世界人民、万歳! 青年先鋒隊、少年先鋒隊…カメラマンの皆さん、さようなら

 

と言って、私の前を去っていきました。

 

今回は、このへんで。

 

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# 絵画で見るホーチミン・トレイル(1)

絵画で見るホーチミン・トレイル(1)

 

昨年12月に、東北学院大学の野崎先生と学生さん9名で、旧ハタイ省(現在ハノイ市に編入された)にあった559部隊博物館(現ホーチミン・トレイル博物館)を訪れた時に、入場券についてきた「チュオンソン・ルート50年」の絵葉書風の絵画を記念品としてもらったものを、これから10回ほどにわたってご紹介します。

 

ベトナム戦争中のチュオンソン山脈のことが多少でも分かっていただけれうなら、ありがたいです。チュオンソン山脈は、かつてはアンナン山脈(安南)とも呼ばれていたところです。

 

ご紹介する私も、それほど詳しくありませんので、少ししか説明できません。

 

ご覧下さい。

                                                                                                     

これは、ボーグエン・ザップ将軍の直筆の写真です。

     

これらのスケッチ、絵はチュオンソン兵士の精力と戦闘の勇気さを表しています。今回の展示室(ギャラリー)にはチュオンソン通りーホーチミン通りという忘れることのできない民族の雄大な作業を記録することができました。

 

 ヴォー・グエン・ザップ     1993年5月

と書かれています。

 

ザップ将軍がサインした1993年は、ホーチミンさンが亡くなって24年目の年になります。日付けが入っていませんが、ヴォー・グエン・ザップさんのことですから、ホーチミンさんの誕生日の5月19日に書かれたのではないかと推測します。

 

写真の右側が、言わずと知れたホーチミンさんです。

   

さて、サインをしたヴォー・グエン・ザップ(漢字:武元甲)は、抗仏、抗米戦争を勝利に導いたベトナムの伝説的名将でした。2013年10月4日に、102歳の生涯を閉じました。軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍総司令官。最終階級は大将でした。

 

優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配の際、ディエン・ビエン・フーの戦いで、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム政府軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力になりました。その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ 、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めました。

 

正式な軍事教育を受けていないところがザップ将軍の真骨頂で、教師時代に読んだ孫子、ナポレオン、ロレンスなどの書物や、ゲリラ闘争を通じて独学で軍事知識を身に着けたようです。そのことから自らを「独学の将軍」と呼び、「藪の軍事学校に通った」と語っていました。

 

私は、ザップ将軍に、ホーチミン市の統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)でお会いしました。趣味が幅広く、音楽はベートーベンやリストが大好き、読書は、前述のように西洋文学を耽読されていました。ご自身はピアノ演奏ができます。ピアノを習い始めたのは、ベトナム戦争が本格化する直前の63年からで、多忙にもかかわらず練習を一度も休まず、2年後には『エリーゼのために』を弾きこなすまでに上達したといいます。意外な面です。

 

写真の左側の方は、ヴォー・バム少将といいます。彼は、クアンガイ生まれで、1974年に少佐になりました。

 

上の絵には、チュオンソン小路の開通についてホーおじさんに報告するヴォー・バム同志・・という題名がついています。年代は1959年となっていますので、少なくとも初期の目的をその年代である程度果たしたことがうかがえます。

 

人民軍でのヴォー・バム将軍は、559部隊の創設です。559部隊は、ベトナムからラオスを通って南ベトナムへ補給路を開く責任を負った部5のことです。1959年5月にボーグエンザップ将軍は、南部での侵略的な闘争に乗り気でなく、ヴォーバム将軍に、ラオス東部を通って南ベトナムに軍事物資を運ぶ秘密のプロジェクトを始めるように命じました。

 

ヴォ―・バムは559輸送部隊を組織し、すぐさま工事を始めました。同時に、その7月に組織された759部隊は、海上での補給ルートをセットすることになりました。しかしながら、陸路の補給ルートは、南部における造反活動のための補給手段としては春かに重要でした。

 

ヴォー・バム将軍の559部隊は、やがて南部へ目につかない形で補給ルートを開きました。年とともに、ルートは拡充し、高度に発展し、敵のアメリカ軍にも知られ、この連絡網はホーチミン・トレイルとよばれるようになり、ハノイの軍事勝利に欠かすことのできない戦略路になりました。

 

559部隊は、ラオスの共産軍パテト・ラオにも物資を供給しました。

 

こんなところが、頭にうかんでくる説明です。

 

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# 報告書が届きました!

報告書が届きました。

 

昨年12月中旬から下旬にかけて、私は東北学院大学のフィールドワークに同行させていただきました。

 

経済学部共生社会経済学科では、2016年度に、AからFまで六つのフィールドワークを行いましたが、ベトナムでのフィールドワークは「C」です。

 

担当の野崎教授が送って下さった報告書は、写真の通りです。

        

全75ページにわたる報告書の中で、C参加の九名の学生さん執筆の報告は、16ページから52ページまでにわたっています。

 

ある意味で、参加した学生さんにとって、世代を超えた枯れ葉剤の被害はここまでひどかったのかという、戦争の脅威をまじかにみた強烈な印象が、報告書の半分弱という占有率にまで突き動かしたとも言えます。

 

そして、はしがきで野崎教授が「しかし、そうしたあまりにも過酷な生活環境の中でさえも難病の子どもたちや孫たちを必死に守り、世話をしている母親や父親の生き抜く姿に接する度に、いつも彼ら/彼女らの中に人間の崇高さと強靭な生命力に気づかされる」と書かれているように、その生き抜く姿に多くを学んだ学生さんが、このまま黙ってはいられなくなったこともたしかだと思います。

 

9名の学生代表を務めた渡邊佳奈子さんは、「現地でしか味わえないこと、被害者に会ってみて初めて分かったこと、さまざまな発見ができた」と記し、「この経験は忘れることはないだろう。たくさんの人たちに敬意をひょうすためにも、ベトナムの現状を伝えていき、支援の輪が広がっていくことを願っている」と締めくくっています。

 

まさに、フィールドワークの大切さが記されています。

 

野崎教授は、この3月に定年退職されました。長い間、たいへんにご苦労さまでした。学生さんも、第6回のフィールドワークCでよく頑張ってくれたと思います。これからも、皆様、御健康で、ご活躍ください。

 

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# ダナン空港を上からみると・・

ベトナムからとんぼ返りで戻りました。

帰りの飛行機で、ハノイを離陸してからずっと雲が多く、すっかり雲が切れたと思ったら、左下にダナン市が見えました。

 

そこで、カメラでダナン空港、ダナン市を撮りました。

   

下から三分の一のところに、横に走るダナン空港の滑走路がみえますね。右側が南、滑走路の左端が北になります。

ダナン国際空港は総面積842ヘクタールで、そのうち、専用空港地域面積は150ヘクタールあります。1940年に建てられたダナン空港は現在2本の滑走路があります。

 

17L/35R ILS 有        3,550×45         アスファルト

17R/35L  ILS  無        3,048×45         アスファルト

 

長さ3,550メートル、幅45メートル、近代的な装備を持っていて、すべての気象条件でB747、B767、A320などの近代的な航空機の離着ができます。

 

国際航空機関(ICAO)の評価では、ダナン空港はヨーロッパからアジア·太平洋地域を通るルートの予備の空港となっており、理想的なロケーションにあります。

 

ダイオキシン汚染されている場所は、滑走路北端(左側の滑走路端)で、ほぼアメリカによるダイオキシン除染作業が終わっています。しかし・・・・除染が完璧かというと・・・????

 

また、上から三分の一のところを滑走路と平行に流れているのが、ハン川です。ハン川 は、ベトナムの南中部に位置する川です。川はクアンナム省に始まり、ダナンで南シナ海に注いでいます。ベトナム戦争中重要なアメリカ海軍基地だったダナン港は、ソンチャー山の麓にある河口に位置します。深海港ですので、大型船も接岸できます。

 

気流も安定し、快適な旅でした。

 

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| comments(0) | - | 11:17 | category: ダイオキシン汚染地 |
# 「絶望死」が増加する米国社会の暗い闇

昨日のアクセスは、217・・・・うれしいですね。ありがとうございました。

 

今朝、ロイター通信が下記のようなニュースを送って来た。

絶望死がふえているというのだ。記事のごく一部をご紹介する。

 

タイトルは、コラム:「絶望死」が増加する米国社会の暗い闇 である。

原稿は、エドワード・ハダス 写真はLucas Jackson記者だ。

   

[ロンドン 29日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 1世紀以上ものあいだ、戦争か疫病、あるいは自然災害でもなければこのような状況は発生しなかった。だが、ソ連が崩壊したときにそれは起きた。そして今、米国も同じ状況を迎えている。

米国の国民、特に白人で低学歴層の平均寿命が以前よりも短くなっているのだ。主な原因はドラッグ、アルコール、そして自殺だ。

 

プリンストン大学のアン・ケース教授とアンガス・ディートン教授は、これら「絶望による死」の背景にある統計を紹介している。ブルッキングス研究所のためにまとめられた両教授による最新の研究からは、25─29歳の白人米国民の死亡率は、2000年以降、年間約2%のペースで上昇していることが分かる。

 

他の先進国では、この年代の死亡率は、ほぼ同じペースで、逆に低下している。50─54歳のグループではこの傾向がさらに顕著で、米国における「絶望による死」が年間5%のペースで増加しているのに対して、ドイツとフランスではいずれも減少している。

 

米国社会の最底辺では特に状況が深刻だ。

学歴が高卒以下の人々の死亡率は、あらゆる年代で、全国平均の少なくとも2倍以上のペースで上昇している。また、低学歴の米国民のあいだでは、「健康状態が良くない」と回答する人が、以前に比べて、またより大きな成功を収めた米国民に比べて、はるかに多くなっている。

 

何か重大な問題が進行している──。単に経済云々ではなかろう。というのも、米国経済は成長しているし、失業や脱工業化は他の先進国にも共通する問題だが、そこでは「絶望による死」は増加していないからだ。米国の独自志向にこうした憂鬱なバリエーションが表われるには、何か別の理由があるに違いない。

 

と、こ引用はこまでにしておきたい。

 

こういう問題の解決は、おカネではなかなかできない。

 

アメリカのエリート層を送り出してきたハーバード・ビジネス・スクールが、知識偏重に誤りをみつけ、東北大震災の現場に学生を送り出して成果を上げつつあるようだが、この記事に出てきたような最低辺の人々を、アメリカ政府の費用でベトナムに送りこんではどうだろうか。

 

ベトナム戦争中にアメリカ軍が撒いた枯れ葉剤で、いまなお、多くの人が塗炭の苦しみをあじわいながら、懸命に生きている。

トランプさんの言う「アメリカFirst」の人材を他国で養成するのだ。人を助けながら、自らの精神面を強くしていく・・・

 

私たちが行っている支援隊のツアーに、日本のある不登校の生徒が参加した。目標を全く見失っている生徒だった。

タバコは吸う。酒は飲む。

彼は、ある日、一人で街に出て、酒を飲んでいた。まだ中三である。

彼は、ベトナムの人から、叱れらたのだ。「若い年して、なにしてんだ」

彼は、泣いた。「父親も、こんな風に叱ってくれなかった」

やがて、彼は、見事に立ち直った。

中三でやめて、社会人にはなったが、社長賞の連続だ。

 

単純な一例にすぎない。

しかし、ベトナムでの生活は、HBSと同等かそれ以上の効果をあげるのではないかと、期待できるのだが、皆さんはどう思われるだろうか?

 

            愛のベトナム支援隊
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# 東北福祉大学・ベトナム・スタディツアー報告書から(4)完

昨日のアクセスは117でした。ご訪問ありがとうございました。

 

東北福祉大学の学生さんの最後は、三浦柾由美さん。

報告書を見ると、初日の支援活動の記録担当者だったらしく、一日目の様子を書いてくれていますので、それを掲載したあと、三浦さんの感想を載せます。

 

 

友好村訪問(8 18 日)

三浦柾由美

 

1 日目私たちはベトナム友好村を訪れた。

今回奨学金の贈呈をした学生はホアン・ティ・ビンさん、ザップ・フエン・リンさん、ヴー・ティ・リエンさん、チン・クオック・バオくん、グイ・ティ・ゴック・トウさん、レ・ティ・フオン・チャーさんの6 人であった。

 

ホアンさんは外見上の障害はなく、何の勉強をしている時が1 番幸せですかという質問にヘアーメイクの勉強と話していたように、一緒に奨学金を贈呈した竹入希望ちゃんと池崎日奈ちゃんがぷれぜんとしたヘアアクセサリーを喜んでつけていたのが印象的であった。

 

ザップ・フエン・リンさんは右足に障害を持っている。やはり前に出てきてと言われ少しの距離を歩くのも大変そうだった。

 

ヴー・ティ・リエンさんは去年参加できなかった人たちの分を含む6 人分の奨学金を受け取った子だ。

 

チン・クオック・バオくんは高度の難聴であり、声を出しての会話はできないが手話を使って話してくれた。毎日自転車で6 キロ、バスで14 キロの長い距離を通学している。周りの音が聞こえないため車や人、物の位置を目で見て判断しながら移動している。ベトナムの道路は信号があってないようなものな上にバイクの量も凄まじい。日本でも周りの音が聞こえない中歩くのは危険だ。そんな中毎日長距離を休まずに登校してると聞き、バス1 時間の通学で文句を言っている自分が情けなくなった。

 

グイ・ティ・ゴック・トウさん(写真・下)は去年口唇裂の手術を受けた。

     

レティ・フオン・チャーさんは去年3 月にお母さんが脳梗塞で倒れてしまい遠く離れた故郷へ帰ってしまったが忙しい中今年は顔を出してくれた。

 

置かれた環境や枯れ葉剤による影響は人それぞれだが勉強がしたくて一生懸命学んでいるということは全員に共通していた。

 

ヴィンフック省(8 18 日)

三浦柾由美

 

今回の奨学金贈呈は5名に贈呈した。一人一人に奨学金の贈呈とお米の贈呈をしたあと日本サイドから2 曲の歌のプレゼントをした。笑顔で聞いてくれた。

 

今回奨学生であるティさんは去年お手伝いでサトウキビを絞っていた際、機械に手を巻き込まれ、小指を失ってしまった。

 

家庭訪問はクアンくんの自宅へ訪問させてもらった。クアンくんは2016 3 月3日に英語のインターネット・オンライン数学コンテストで230 点で全体の20 位、翌年の3月4 日にベトナム語でのインターネットオンライン数学コンテストで260 点で3 位に入賞している。

 

恥ずかしがり屋なようで一人一人の奨学金の受け渡しをするのに前に出てきた時もずっと下を向いており、バスの中でも洋服に顔を埋めていた。その姿が可愛らしかった。

     

     終始顔を隠すクアン君

 

家に到着するとクアンくんの親戚たちが笑顔で迎えてくれた。クアンくんの叔父にあたる方もおり、城川さん(看護師さん)の健康診断を受けた。以前肝臓を悪くしており手術を受けたそうだ。今でもたまに体調が悪くなる時があるそうで、本来なら病院に行くべきだが、病院までの距離も遠いうえに金銭的にも余裕がなく行っていないと言っていた。顔色も悪かった。

 

彼に日本円をあげたら少年のように大喜びして皆に見せびらかしていた。代わりに

10 万ドンをくれた。その10 万ドンは私にとって貴重な宝物になった。

 

その日は非常に蒸し暑かったため水道まで私を連れて行ってくれ、この水で涼むんだとジェスチャーで教えてもらいコミュニケーションをとった。

お昼ご飯として岩田和子さんと佳子さんの手作り混ぜご飯を振る舞ったら皆喜んで食べていた。

   

   岩田佳子さんが苦労して作った青森の地鶏の炊き込みご飯

 

それでは、三浦さんのツアーの感想です。

 

三浦柾由美

   

   奨学金贈呈に立ちあった三浦さん(右)

 

今回私は初めて参加させていただきましたがとても貴重な経験をしたと思っています。

一緒に奨学金を贈呈し、10 日間ともに過ごした仲間たちは、年齢、職業、住んでいる場所、それぞれ違うため色々な価値観や物の考え方を学べ、教えてもらいこのツアーに参加しなければ出会えなかった人たちであり出会えてよかったと思いました。

 

物価も日本と比べて相当安く今回、ある1 人に渡した奨学金の額が日本円で9000 円と聞いた時、果たして9000で何ができるのだろうかと思いましたが、9 割は賄えると聞いて驚きました。

 

牛の贈呈をした時ありがとうと言いながら泣いていたのも信じ難く、24日に友好村に再訪問してスイカ割り大会をした時も枯れ葉剤の影響でどこかしらに不自由があったりするのが目に見えてわかる子供達が大勢おり、枯れ葉剤が撒かれてから何十年経った今でも影響を受けている人たちが多くいるということを学びました。

   

このツアーに参加して日本では経験できない事や多くの感情を学ぶことが出来、今後の人生に役立たせることが出来たらいいなと思いました。ありがとうございました。

   

   ダナンのミーケ・ビーチで遊ぶ三浦さん(右)と池さん

 

++++

 

以上で、東北福祉大学から参加の4人の学生さんの経験のご紹介を終わります。

 

今年もまた、小さなドラマがたくさん生まれることを期待しています。

 

            愛のベトナム支援隊
                   Love & Support Vietnam
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| comments(0) | - | 08:27 | category: 東北福祉大学 |
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